SSブログ

世界遺産 メキシコ:パレンケ遺跡 [海外旅行]


パレンケ (Palenque) は、メキシコに存在する
マヤ文明の古代都市遺跡で、メキシコの世界
遺産の一つである。
ユカタン半島の付根にあたるメキシコ南東部の
チアパス州に位置し、7世紀に最盛期を迎えた
都市の遺構としての宮殿を中心とする、
「マヤ遺跡の典型」といわれる[2]建物群を密林
のなかに配置している。
18世紀の半ば頃にスペイン人の手により発見に
至り、その本格的な発掘調査が始まったのが
1948年である。
その調査の最終局面にあたる1952年6月15日、
メキシコの考古学者アルベルト・ルスが「碑文の
神殿」の地下室に辿り着き、室内の壁面にはめ
込まれていた巨大な石板を取り外したところ、
鍾乳石の垂れ下がる広い洞窟のような部屋が
その向こう側に確認された。
そこには殉死者と目される数体の遺体に加え、
肖像画やマヤ文字、また生命樹の図柄の浮彫が
施された石の蓋、そしてその下に石棺が埋もれており、
多くの装飾品を脇にした遺体が内部に発見された。
翡翠の仮面をまとったこの遺体は、7世紀に在位
したパカル王(偉大な太陽楯、8アハウの偉大な
パカル、パカル2世、パカル大王、在位615年 -
683年)として知られる王のそれであった。
この発見は、中央アメリカのピラミッドがエジプトの
それとは違うという定説、すなわち王の墓ではなく
神殿の土台に過ぎないものとの定説を覆し、
当時の考古学界に大きな旋風を巻き
起こすこととなった。
1987年には「古代都市パレンケと国立公園」
として世界遺産に登録された。

nice!(46)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行

前面展望映像:成田国際空港[→]横浜市内 [海外旅行]


成田国際空港は、千葉県成田市にある日本最大の国際拠点空港である。首都圏東部(東京の東60キロメートル)に位置している。
乗り入れ航空会社数99社、乗り入れ就航都市数137都市141路線(海外115都市118路線「40か国3地域」、国内22都市23路線)、開港から現在までの航空機発着回数は通算約580万回、航空旅客数は通算約10億人 と名実ともに日本を代表する空の玄関口であり、日本航空、全日本空輸 / エアージャパン、ジェットスター・ジャパン、春秋航空日本、Peach Aviation、ZIPAIR Tokyo、日本貨物航空のハブ空港である。関西国際空港とともに大都市圏の国際線専用空港という傾向が強い。LCCターミナル(第3ターミナル)による格安航空会社(LCC)は国内線も大幅に拡大しており、関西国際空港と並んでLCCの拠点空港となっている。成田空港の貿易額は日本全体の貿易額の14パーセントを占め(2015年)、1994年以降、常に港湾および空港を含めた国内最大の貿易港となっている。
1978年5月20日に、成田国際空港の前身である新東京国際空港として開港した。2004年4月1日、成田国際空港株式会社法が施行され、空港を管理する新東京国際空港公団が、日本国政府による100パーセントの出資で設立された成田国際空港株式会社に改組し民営化(特殊会社化)。

nice!(35)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行

世界遺産:京都 銀閣寺 [海外旅行]


慈照寺は、京都府京都市左京区銀閣寺町にある、臨済宗相国寺派の仏教寺院。相国寺の境外(けいがい)塔頭である。室町時代後期に栄えた東山文化を代表する建築と庭園を有する。
室町幕府第8代将軍足利義政が鹿苑寺の舎利殿(金閣)を模して造営した楼閣建築である観音殿は銀閣、観音殿を含めた寺院全体は銀閣寺として知られる。「古都京都の文化財」の一部としてユネスコ世界遺産に登録されている。銀閣は、金閣、飛雲閣(西本願寺境内)とあわせて京の三閣と呼ばれる。
山号は東山。開基(創立者)は足利義政、開山は夢窓疎石とされている。夢窓疎石は実際には当寺創建より1世紀ほど前の人物(故人)であり、このような例を勧請開山という。

室町幕府8代将軍足利義政は文明5年(1473年)に子の足利義尚に将軍職を譲り、 文明14年(1482年)から東山の月待山麓に東山山荘(東山殿)の造営を始めた。この地は、応仁の乱で焼亡した浄土寺のあったところであり、近代以降も左京区浄土寺の地名が残っている。義政が山荘造営を思い立った当初(1465年)は、実際の造営地の約1キロメートル南、南禅寺子院の一つであった恵雲院(戦国時代に廃寺)の所在地を考えていたが、応仁の乱後に変更された。
当時は応仁の乱が終了した直後であり、京都の経済は疲弊していたが、義政は庶民に段銭(臨時の税)や夫役(労役)を課して東山殿の造営を進め、書画や茶の湯に親しむ風流な隠栖生活を送っていた。造営工事は義政の死の直前まで8年にわたって続けられたが、義政自身は山荘の完成を待たず、工事開始の翌年である文明15年(1483年)にはここに移り住んでいた。東山殿には会所、常御所、釣秋亭、竜背橋、泉殿、西指庵、漱せん亭、超然亭などの大規模な建物が建ち、義政の祖父で第3代将軍足利義満が建てた北山殿(後の鹿苑寺)ほどではないが、ある程度政治的機能も持っていた。ただし現存する当時の建物は銀閣と東求堂(とうぐどう)のみである。
延徳2年(1490年)2月、同年1月に死去した義政の菩提を弔うため東山殿を禅寺に改め、相国寺の末寺として創始されたのが慈照寺である。寺号は義政の院号である慈照院殿にちなみ「慈照院」とされたが、翌年「慈照寺」に改められた[2]。なお、造営自体が完了したのは義政死去後である。
戦国時代中期の天文19年(1550年)には第12代将軍足利義晴とその子で第13代将軍義輝により慈照寺の裏山に中尾城が築かれ(短期間で廃城)[3]、末期には前関白近衛前久の別荘にもなったが、これは慈照寺6世の陽山瑞暉が前久の弟だったことによる[4]。前久の薨去後の法名は東求院龍山空誉であった。前久の死後は再び相国寺の末寺として再興された。
昭和27年(1952年)3月29日には庭園が 特別史跡および特別名勝に指定された。平成6年(1994年)12月17日には「古都京都の文化財」として ユネスコ世界遺産に登録されている。

nice!(30)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行

三大美城(ドイツ):ノイシュヴァンシュタイン城 [海外旅行]


ノイシュヴァンシュタイン城は、ドイツ連邦共和国
南部のバイエルン州バイエルン・シュヴァーベン地方
オストアルゴイ郡シュヴァンガウ町
ホーエンシュヴァンガウ地区にある城である。
バイエルン王ルートヴィヒ2世によって19世紀に建築
された。オーストリア国境に近いオストアルゴイ郡
フュッセンの東南東方向(直線距離にて約4km)に
位置し、近隣には、ルートヴィヒ2世が幼少時代を
過ごし、彼の父親が所有していた
ホーエンシュヴァンガウ城がある。

ノイシュヴァンシュタインという名は、現在
ホーエンシュヴァンガウ城のある地にかつて
あったシュヴァンシュタイン城にちなみ、1886年に
なって付けられた名であり(「ノイ (Neu)」は
ドイツ語で「新しい」、シュタインは「石」の意)、
建設当時はホーエンシュヴァンガウ新城と
呼ばれていた。
シュヴァンガウは、「白鳥地区」の意味の地名で、
ホーエンシュヴァンガウは、上シュヴァンガウ村
のことである。
伝統的な建築方式で造られているように見えるが、
石造りではなく鉄骨組みのコンクリートおよび
モルタル製で、ドイツの城館に本来は必ずあるべき
小聖堂や墓地がない。これらの点から古建築保存を
目的とする世界遺産になっていないと思われてきたが、
2015年にリンダーホーフ城やヘレンキームゼー城
とともにユネスコの世界遺産暫定リストに登録され、
本申請を待っている。

三大美城といわれるのが「ノイシュヴァンシュタイン城」
・「ホーエンツォレルン城」・「エルツ城」です。

nice!(26)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行

農と食に関するテーマパーク:十勝ヒルズ [海外旅行]


十勝ヒルズは、北海道中川郡幕別町にある農と食に関するテーマパーク。
丘陵地にあり、好天時には帯広市街地などの十勝平野や日高山脈を眺めることができる。園内には6つの庭園(ガーデン)、ハンガリー料理や和食のレストラン、農家の木村秋則が提唱する自然栽培の畑やソバの畑、果樹園、ショップ・カフェなどが点在しているほか、チャペルや多目的ホールなどもある。

2016年、ハンガリーでは国宝認定されている豚、マンガリッツァを購入し繁殖と飼育に成功させて、2018年より十勝ロイヤルマンガリッツァ豚のブランド名で出荷を開始している。マンガリッツァ豚の繁殖と飼育事例としては日本初となる。

四季の彩りに満ちあふれた十勝ヒルズは、色鮮やかな草花と木々の緑が生き生きと輝く憩いと癒しの空間です。
どこまでも広がるその素晴らしい空間には、約1000種類の草花が散りばめられたガーデン、安心・安全・こだわりを追求した農作物が豊かに稔るヒルズファーム、そして雄大な景色を楽しみながら旬の食材を堪能できるこだわりのレストランが…。
すがすがしい空気の中で花や土に触れ、自然の息吹をたっぷりと体感してみてください。
きっと、豊かな自然の中で育まれる命の素晴らしさと愛おしさを「心」で感じることができるはずです。


nice!(36)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行

特別自然美観地域:英国 コッツウォルズ [海外旅行]



コッツウォルズ (Cotswolds) は、イングランド中央部に広がる標高300m以上に達する丘陵地帯であり、時にイングランドの中心と呼ばれる。特別自然美観地域に指定され、クリーブヒルがこの丘陵地帯で最も高く、330mである。
コッツウォルズはグロスターシャーで最も面積が広く、サマセット州、オックスフォードシャー、ウィルトシャー、ウォリックシャー、ウスターシャーの各州にまたがる。コッツウォルズは「羊の丘」という意味。
コッツウォルズは歴史が古く、羊毛の交易で栄えていた。現在でも、古いイングランドの面影を残した建物を見ることができる。20世紀にはいり、その景観を活かした観光業が盛んになっており、毎年多くの観光客が訪れている。黄色みを帯び「蜂蜜色の石」「ライムストーン」とも称される石灰岩「コッツウォルズストーン」を使った建物群が特徴的な景観をなしている。

nice!(37)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行

前面展望:神奈川県横浜市[→]愛媛県坂出市 No1:横浜市港南台[→]東名高速御殿場 [海外旅行]


横浜横須賀道路は、神奈川県横須賀市と横浜市保土ケ谷区を結ぶ国道16号の自動車専用道路(有料)である。地域高規格道路の計画路線に指定されている。略称横横道路、横横。
国道16号のバイパス道路として三浦半島を縦貫する道路で、東日本高速道路が管理する道路である。

保土ヶ谷バイパスは、神奈川県横浜市保土ケ谷区から東京都町田市へ至る国道16号のバイパス道路。
自動車専用道路であり地域高規格道路に指定されているが、通行料などの徴収はない。周辺で接続する東名高速道路・国道1号横浜新道・国道16号横浜新道・横浜横須賀道路・首都高速道路・第三京浜道路などとともに、広域的・地域的交通を担う。
横浜市中心部より町田市、八王子市、川越市方面へと伸びる国道16号のバイパスとして、横浜新道新保土ヶ谷ICから横浜市旭区を縦断し、東名高速横浜町田ICまでを結んでいる。

東名高速道路は、東京都世田谷区の東京インターチェンジ (IC) から、神奈川県・静岡県を経由し、愛知県小牧市の小牧ICへ至る高速道路(高速自動車国道)である。通称東名高速、新東名高速道路と特に区別する場合には旧東名・現東名など。NEXCO中日本の公式的呼称は東名と現東名。法令上の正式な路線名は第一東海自動車道である。また、アジアハイウェイ1号線「AH1」の一部である。

nice!(41)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行

世界遺産:パリ ノートルダム大聖堂 [海外旅行]


パリのノートルダム大聖堂は、ゴシック建築を代表
する建物であり、フランス、パリのシテ島にある
ローマ・カトリック教会の大聖堂。
「パリのセーヌ河岸」という名称で、周辺の文化遺産
とともに1991年にユネスコの世界遺産に登録された。
現在もノートルダム大聖堂は、パリ大司教座聖堂と
して使用されている。
ノートルダムとはフランス語で「我らが貴婦人」すなわち
聖母マリアを指す。

パリのノートル・ダム大聖堂の正面に向かって左側の
ポルタイユ(正面)には、聖母マリアの聖母被昇天の
主題が取り上げられている。
中段では聖母マリアが地上における生を終える場面が
描かれ、上段でキリストから祝福を授けられている
聖母マリアが鎮座している。
キリストを中心にして天使や聖人たちが描かれており、
過去、未来、未来という崩れた構成となっている。

2019年4月15日夜(現地時間)に大規模火災が発生し尖塔
などを焼失した。翌日16日午前に消火活動により鎮火した。
同日にバチカンのフランシスコ教皇も「ローマ・カトリック
教徒およびパリ市民のために祈っている」と声明発表している。
パリの有名観光名所として、観光客が絶えない
ノートルダム大聖堂は、ヴィクトル・ユーゴーの名作
『ノートル・ダム・ド・パリ』、ナポレオンの戴冠式など、
パリの歴史を850年見守り続け、現在もパリ大司教座聖堂
として使用されています。周辺の文化遺産と共に
「パリのセーヌ河岸」としてユネスコ世界遺産にも
登録されています。
パリのど真ん中に位置しるノートルダム大聖堂は、
ルーブル美術館やマレ地区、サンジェルマンデプレなどからも
近く、パリ散策には欠かせない観光名所の一つです。

ノートルダムの敷地は、ローマ時代にはユピテル神域であったが、
ローマ崩壊後、キリスト教徒はこの地にバシリカを建設した。
1163年、司教モーリス・ド・シュリーによって、現在にみられる
建築物が着工され、1225年に完成した。ファサードを構成する
双塔は1250年に至るまで工事が続けられ、ヴォールトを支える
フライング・バットレスは12世紀に現様式に取り替えられた。
最終的な竣工は1345年。
全長128m、幅48m、高さ91m、内部の身廊の天井高32.50mと、
それまでにない壮大なスケールの大聖堂が完成した。全体の色合
いから、白い貴婦人とも称されている。
1789年に始まったフランス革命により他の教会同様に
ノートルダム大聖堂も襲撃を受け、大聖堂を飾っていた歴代の
王の彫像が破壊されて埋められた。
この彫像群は1977年に工事の際偶然発見され、現在では近く
にあるクリュニー中世美術館に展示されている。

2019年4月15日の夕方に大規模火災が発生し、
屋根の尖塔が崩落した。
フランスのメディアでは、現地で実施されていた改修工事による
火災の可能性があると報じられている。
寺院に保管されていた文化財・美術品の一部は、消防士に
より運び出されるなどして焼失を免れたと発表された。
巨大なパイプオルガンも無事だった。

nice!(51)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行

重要文化財:京都 高台寺 [日本の歴史]


高台寺、髙臺寺は京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の寺院。山号は鷲峰山(じゅぶさん)、寺号は詳しくは高台寿聖禅寺と称する。豊臣秀吉の正室である北政所(高台院)が秀吉の冥福を祈るため建立した寺院であり、寺号は北政所の落飾(仏門に入る)後の院号である高台院にちなむ。釈迦如来を本尊とする禅宗寺院であるとともに、秀吉と北政所を祀る霊廟としての性格をもった寺院である。
霊屋(おたまや)の堂内装飾には桃山様式の蒔絵が用いられ、これを「高台寺蒔絵」と呼ぶ。他に北政所所持と伝えられる蒔絵調度類を多数蔵することから「蒔絵の寺」の通称がある。
豊臣秀吉が病死したのは 慶長3年(1598年)であった。秀吉の正室である北政所(ねね、出家後は高台院湖月心尼)は秀吉の菩提を弔うための寺院の建立を発願し、当初は北政所の実母・朝日局が眠る康徳寺(京都の寺町にあった)をそれに充てようとしたが、手狭であったため、東山の現在地に新たな寺院を建立することになった。秀吉没後の権力者となった徳川家康は、北政所を手厚く扱い、配下の武士たちを高台寺の普請担当に任命した。中でも普請掛・堀直政の働きは大きかったようで、高台寺の開山堂には直政の木像が祀られている。高台寺の開山は慶長11年(1606年)で、当初は曹洞宗の寺院であった。寛永元年7月(1624年)、高台寺は臨済宗建仁寺派の大本山である建仁寺の三江紹益を中興開山に招聘。この時、高台寺は曹洞宗から臨済宗に改宗している。

庫裏 - 拝観順路入口に位置する。内部は通常非公開。玄関から垣間見える「夢」と書かれた衝立が印象的である。
方丈 - 庫裏の右手に建つ。大正元年(1912年)の再建。創建当初の方丈は文禄の役後に伏見城の建物を移築したものであった。
勅使門 - 方丈の南正面に位置する。大正元年(1912年)に方丈とともに再建された。
書院 - 方丈の背後に建つ。
開山堂(重要文化財) - 書院の東方、庭園内に建つ入母屋造本瓦葺きの禅宗様の仏堂。慶長10年(1605年)の建築。元来、北政所の持仏堂だったもので、その後、中興開山の三江紹益の木像を祀る堂となっている。堂内は中央奥に三江紹益像、向かって右に北政所の兄の木下家定とその妻・雲照院の像、左に高台寺の普請に尽力した堀直政の木像を安置している。この堂の天井は、秀吉の御座舟の天井と、北政所の御所車の天井を用いたものという。 
観月台(重要文化財) - 書院と開山堂を結ぶ屋根つき廊の途中にある小規模な建築である。ここから北政所は亡き秀吉を偲びながら月を眺めたという。
臥龍廊(がりょうろう) - 開山堂と霊屋(おたまや)を結ぶ屋根付きの階段、龍の背に似ているところからこの名が付けられた。
霊屋(重要文化財) - 開山堂の東方、一段高くなった敷地に建つ、宝形造檜皮葺きの堂。慶長10年(1605年)の建築。内部は中央の厨子(平素、扉を閉じている)に大随求菩薩(だいずいぐぼさつ)像を安置し、向かって右の厨子には豊臣秀吉の坐像、左の厨子には正室・北政所の片膝立の木像がそれぞれ安置されている。厨子の扉には秋草、松竹など、須弥壇には楽器などの蒔絵が施されている。厨子の目立たぬところに蒔絵の作者の名が線描きされておりその点でも貴重。寺に所蔵される、北政所所用と伝える調度品類にも同じ様式の蒔絵が施され、これらを高台寺蒔絵と称している。高台寺蒔絵の特色は、金の平蒔絵(文様部分の漆を盛り上げずに、平滑に仕上げたもの)を主体に秋草などの絵画的な文様を描くことである。なお、北政所は自身の像の約2メートル下に葬られている。
表門(重要文化財)
庭園(史跡・名勝) - 小堀遠州作とされ、しだれ桜と萩の名所。石組みの見事さは桃山時代を代表する庭園として知られる。

nice!(44)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行

地下神殿:首都圏外郭放水路 [海外旅行]


首都圏外郭放水路は、日本の治水施設(調整池)。
埼玉県春日部市の上金崎地から小渕にかけての延長約6.3km、国道16号直下約50m地点に設けられた世界最大級の地下放水路である。周辺の中川、倉松川、大落古利根川、18号水路、幸松川といった中小河川が洪水となった時、これらの洪水の一部を江戸川に流し、洪水の被害を軽減する。
1993年(平成5年)3月に着工し、2002年(平成14年)6月に一部供用を開始した後、2006年(平成18年)6月から全区間の完成と全川の供用が開始した。
公式の愛称は彩龍の川で、銘板にもその名が刻まれている。メディアなどでは地下神殿と呼ばれることが多い。

nice!(46)  コメント(1) 
共通テーマ:旅行

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。