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ドイツ旅行:ニュルンベルク市の風景 [海外旅行]

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2009年9月下旬撮影、2009年9月25日から10月8日までドイツの個人自由旅行(その日の気分と天気で詳細決定)に行って来ました。基本ルートは、ミュンヘンとバイエルン州の観光、ハイデルベルク/フランクフルト/ケルン観光、ベルリン/ポツダム/ニュルンベルグ観光で合計14日間の旅行です。2日間は曇り時々小雨でしたが天気には恵まれたたと思っています。移動方法は1日だけ友人の車でドライブ旅行でしたが残りの都市間移動は8日間のジャーマン・レイル・パスを利用し市内は地下鉄とバスを利用しました。特にトラブルにも遭わず無事帰国でき満足、満足の旅行でした。その旅行記録映像を数回に分割して投稿しますのでご覧下さい。

ミュンヘンからハイデルベルク、フランクフルト、ケルン、ベルリン、ポツダム、ニュルンベルクにドイツ鉄道 DBのジャーマンレイルパスを利用して訪問してきましたのでその映像をご覧下さい。
    
   57回目は、ニュルンベルク市あの第二次世界大戦後の戦争犯罪人裁判「ニュルンベルク裁判」実施が開かれた街、その街の風景映像をご覧下さい。

Wikipediaからの抜粋ですが「ニュルンベルクは、ドイツ連邦共和国バイエルン州の郡独立市。ミッテルフランケン行政管区に属す。人口50万人を超えるバイエルン州第2の都市(ドイツ全体では14番目)である。
中世からの伝統ある都市であり、リヒャルト・ワーグナーの楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の舞台としても知られる。現在も旧市街は中世の城壁で囲まれている
多くの皇帝がニュルンベルクを好んで居館に選んだ。なかでもカール4世は、1356年にニュルンベルクで金印勅書を公布した。勅書では即位後第1回目の帝国議会をニュルンベルクで開催することと定められ、この慣例は1543年まで続けられた。
19世紀になるとニュルンベルクはバイエルンの工業中心都市の一つとして発展した。1835年にはドイツ初の旅客鉄道アドラー号がニュルンベルクからフュルトまで運行を開始した。
1920年代にはすでにニュルンベルクで国家社会主義ドイツ労働党(ナチス)の党大会が開催された。ただしニュルンベルク自体は選挙でナチス党を勝たせなかった。
ナチス党政権下時代、ナチス党大会が、1933年から1938年にかけてニュルンベルクで行われ、その模様はレニ・リーフェンシュタールにより映画化された。この街はナチスにとって「帝国党大会の街」としてプロパガンダの上で重要な都市であった。
第二次世界大戦中、ニュルンベルクは連合国軍による空爆の優先目標であった。イギリス空軍とアメリカ空軍の航空機による爆撃で1945年1月2日にニュルンベルク旧市街は破壊され、全市域が甚大な被害を負った。
第二次世界大戦後、1945年から戦勝国はナチス独裁政権下の指導的戦争犯罪人に対する裁判、いわゆる「ニュルンベルク裁判」を実施した。」と記載されています。

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1493年のニュルンベルク:Wikipediaからの抜粋
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第二次世界大戦後瓦礫の山と化したニュルンベルクの街:Wikipediaからの抜粋
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復元されたアドラー号の試走:Wikipediaからの抜粋
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