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九品仏浄真寺(くほんぶつじょうしんじ) [東京都]

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九品仏浄真寺を解説するには、奥沢城の歴史が必要です。

Wikipediaよりの抜粋ですが「奥沢城(おくさわじょう)は東京都世田谷区奥沢にあった城。奥沢城は、吉良氏によって築かれた平城。世田谷城の出城として用いられた。周囲の平野部に南の台地から北方に突き出た舌状台地上に占地し、台地上の九品仏浄真寺境内に方形の郭跡が認められる。九品仏駅前から台地東麓に掛けて城郭由来の地名が残ることから、城域は九品仏駅付近から台地端まで拡がっていたものと考えられる。

浄真寺の地は、もともとは世田谷吉良氏系の奥沢城であった。小田原の役後同城は廃城となったが、寛文5年(1675年)に当地の名主七左衛門が寺地として貰い受け、延宝6年(1678年)、珂碩上人(かせきしょうにん)が同地に浄真寺を開山した。
広い境内の本堂の対面に3つの阿弥陀堂があり、それぞれに3体合計9体の阿弥陀如来像が安置されている。 この9体はそれぞれ、上品上生(じょうぼんじょうしょう)、上品中生、上品下生、中品上生、中品中生、中品下生、下品上生、下品中生、下品下生を表し、これをあわせて九品(あるいは九品往生)という。 この九品の仏から、浄真寺は通称「九品仏」と呼ばれている。
」と記載されています。

また世田谷区の花である’鷺草’について興味深い話が伝わっています。
世田谷HPからの抜粋ですが「世はまさに戦国時代。各地の大名が兵を起こし、群雄割拠の様相を呈していたころのこと。世田谷から衾村(ふすまむら)、碑文谷郷一帯は、世田谷城主吉良頼康の支配下にあった。頼康は、奥沢城主大平出羽守の娘常盤(ときわ)姫を側室として迎えた。やがて、常盤(ときわ)は子をみごもったため、頼康はことのほか常盤(ときわ)をいつくしむようになった。
血筋を絶やしてはならない大名のしきたりに従って、頼康には、常盤(ときわ)のほかに12人の側室がいた。彼女たちは、頼康を一人占めにする常盤(ときわ)をねたみ、「常盤(ときわ)様のお子は、殿のお子かどうか疑わしい」などと、まことしやかに頼康につげ口し、常盤(ときわ)への愛情を妨げようとたくらんだ。 

常盤(ときわ)の悪いうわさを、頼康は否定しながらも、心の中にはいつの間にかどす黒い疑惑の霧がたち込めていった。自然と常盤(ときわ)へも冷たい仕打ちをするようになった。とりなしてくれる者も無く、悲しみに暮れた常盤(ときわ)は、「いっそ死んで、身の潔白の証しにしよう」とまで思いつめた。奥沢城の父にあてて遺書をしたためると、小さいころからかわいがって、輿(こし)入れの際にも一緒に連れて来た、1羽の白鷺の足に結びつけ、奥沢の方角へ放った。主人のただならぬ様子をさとったかのように、白鷺は奥沢城目指してまっしぐらに飛び去った。ちょうどそのころ、衾村(ふすまむら)で狩りをしていた頼康は、この白鷺を見つけ射落としてしまった。みると、足に何やら結びつけてある。不審に思って開いてみると、姫から父へ覚悟の自殺を報じた文であった。驚いた頼康は、急ぎ城に帰ったが、時すでに遅く常盤(ときわ)は自害し果てた後であった。傍らには、死産の男の子の姿があった。疑いは晴れたが、もう常盤(ときわ)も子も戻っては来ない。深く後悔した頼康は、せめてもの償いにふたりの霊を慰めようと、領内の駒留(こまどめ)八幡宮に若宮と弁財天を祀ったのである。一方、使命半ばにして倒れた白鷺は、よほど無念だったのか、その地に鷺の飛翔する姿の花を咲かせる草になったという。」と鷺草についての話が伝わっています。

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ちゃーちゃん

こんばんは!!
常磐姫のお話は戦国の世に伝わる悲しいお話ですネ...今TVで
大奥〜誕生を見ているのでお世継ぎの話が分かります・・・
由緒ある素晴らしいお寺や神社?ですネ。
by ちゃーちゃん (2012-10-26 18:57) 

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