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世界遺産 富士山+「空想花火大会」 [海外旅行]


富士山は、静岡県(富士宮市、裾野市、富士市、御殿場市、駿東郡小山町)と、山梨県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)に跨る活火山である。標高3776.12 m、日本最高峰(剣ヶ峰)の独立峰で、その優美な風貌は日本国外でも日本の象徴として広く知られている。数多くの芸術作品の題材とされ芸術面のみならず、気候や地層など地質学的にも社会的に大きな影響を与えている。懸垂曲線の山容を有した玄武岩質成層火山で構成され、その山体は駿河湾の海岸まで及ぶ。
古来霊峰とされ、特に山頂部は浅間大神が鎮座するとされたため、神聖視された。噴火を沈静化するため律令国家により浅間神社が祭祀され、浅間信仰が確立された。また、富士山修験道の開祖とされる富士上人により修験道の霊場としても認識されるようになり、登拝が行われるようになった。これら富士信仰は時代により多様化し、村山修験や富士講といった一派を形成するに至る。現在、富士山麓周辺には観光名所が多くある他、夏季シーズンには富士登山が盛んである。
日本三名山(三霊山)、日本百名山、日本の地質百選に選定されている。また、1936年(昭和11年)には富士箱根伊豆国立公園に指定されている。その後、1952年(昭和27年)に特別名勝、2011年(平成23年)に史跡、さらに2013年(平成25年)6月22日には関連する文化財群とともに「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の名で世界文化遺産に登録された。

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前面展望映像:横浜市バス 87系統-横浜西口循環+「空想花火大会」 [海外旅行]


横浜市バスの87系統-横浜西口循環+「空想花火大会」の映像です。
新たに走行時間のカウントダウン時間を追加しました。

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ノルウェー旅行映像:ブリクスダール氷河 + 「空想花火大会」 [海外旅行]


撮影映像日:2006‎年‎8‎月
    ブリクスダール氷河の背景画像で「空想花火大会」追加  

ブリクスダール氷河
ブリクス谷にある高さ1200mのブリクスダール氷河。ヨーロッパ最大の氷河ヨステダールから分岐したものだ。近くには、氷河観光のためのレストラン、小さなホテル、みやげ品店、氷河ハイキングなどの観光案内所などがある。観光の基点となるロッジから氷河までは、徒歩で45分ほど。

氷河は、山地では重力、平坦な大陸では氷の重さによる圧力によって塑性流動する、巨大な氷の塊である。
氷河は、山がちな、または傾斜した地形に、複数年にわたって氷や雪が堆積し、万年雪が圧縮されることでできる。下部には過去の氷期にできたものが融けずに残っている場合もある。氷河は侵食、堆積を活発に行い、独特な氷河地形を生む。
地球の気温と氷河は密接な関係があり、海進、海退の原因となる。現在陸上に見られる氷河は、南極氷床、グリーンランド氷床を最大級として、総計1,633万 km2に及び、陸地面積の約11%を覆う。
近年は地球温暖化の影響でその面積や厚さの減少が激しく、問題となっている。

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GoogleEarth映像:アルゼンチン グアテマラ + 「空想花火大会」 [海外旅行]



アルゼンチン
ブエノスアイレスは、人口289万人(2010年)を擁するアルゼンチンの首都である。
どの州にも属しておらずブエノスアイレス自治市[3]とも呼ばれる。大ブエノスアイレス都市圏の都市圏人口は2016年時点で1,428万人であり、世界第21位である。建国以来アルゼンチンの政治、経済、文化の中心である。アルゼンチンの縮図ともなっている一方で、内陸部との差異が大きすぎるため、しばしば「国内共和国」と呼ばれる。
「南米のパリ」の名で親しまれ[5][6]、南米の中で美しい町の1つとして数えられる。
ラ・プラタ川(Río de la Plata スペイン語で「銀の川」の意)に面しており、対岸はウルグアイのコロニア・デル・サクラメント。
意味はスペイン語で「buenos(良い)aires(空気、風)」の意。船乗りの望む「順風」が街の名前になったものである。
独立当時は「偉大な田舎」と呼ばれる人口5万人程の小さな町だったが、サルミエント (Sarmiento) 政権による欧州化、文明化政策の実施以降数多くの移民がイタリア・スペインなどから渡来し、中南米の中でも最も欧州的な街になった。
かつて南米随一の豊かさを誇ったアルゼンチンの首都として、20世紀において長らくブエノスアイレスは南米最大級の都市であった。1970年代以降のアルゼンチン経済の悪化に伴い、南米最大の都市はブラジルのサンパウロに移ってしまったものの、現在でもブエノスアイレスはスペイン語圏の都市として重要性を保ち、アメリカのシンクタンクが2019年に発表した世界都市ランキングでは24位に評価され、南米の都市の中で首位であった。

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世界らん展:花と緑の祭典+「空想花火大会」 [海外旅行]


 最後にUnityと撮影花火の映像を追加しました。

世界らん展-花と緑の祭典は、日本における大規模国際園芸展示会であり、代表的な蘭展。
毎年1回、2月中旬から下旬(3月初旬までの場合もある)の7〜9日間、東京都文京区の東京ドームで開催される。
展示には洋蘭、東洋蘭(シュンラン、カンラン等)、日本の蘭(エビネ、セッコク等)など、世界約20ヶ国から約3000種10万株のラン科植物を中心に様々な植物が集まる。また会場内には100店以上の販売ブースが設けられ、植物の苗、切花、栽培用素材・器具、書籍、植物をモチーフとした雑貨、工芸品、化粧品、菓子などが販売される。期間中の来場者数は延べ約12万人である。
開催地固定型の蘭展としては、サンタバーバラ国際蘭展、マイアミ国際蘭展や台湾国際蘭展などとともに、世界最大級の規模を誇る。

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世界遺産:ストーンヘンジ クレイグミラー城 ホリールード宮殿 ソールズベリー大聖堂 クレイグミラー城 [海外旅行]


最後に「空想花火大会」を追加しました。
  撮影映像日:2010年10月
ストーンヘンジ(Stonehenge)は、ロンドンから西に約200kmのイギリス南部・ソールズベリーから北西に13km程に位置する環状列石(ストーンサークル)のこと。世界文化遺産として1986年に登録された。
円陣状に並んだ直立巨石とそれを囲む土塁からなり、世界で最も有名な先史時代の遺跡である。考古学者はこの直立巨石が紀元前2500年から紀元前2000年の間に立てられたと考えている。そして、それを囲む土塁と堀は紀元前3100年頃まで遡るという。
馬蹄形に配置された高さ7mほどの巨大な門の形の組石(トリリトン)5組を中心に、直径約100mの円形に高さ4-5mの30個の立石(メンヒル)が配置されている。夏至の日に、ヒール・ストーンと呼ばれる高さ6mの玄武岩と、中心にある祭壇石を結ぶ直線上に太陽が昇ることから、設計者には天文学の高い知識があったのではないかと考えられている。また、当時としては高度な技術が使われており、倒れないよう安定させるため石と石の間には凹凸がある。
遺跡の目的については、太陽崇拝の祭祀場、古代の天文台、ケルト民族のドルイド教徒の礼拝堂など、さまざまな説が唱えられているが、未だ結論はでていない。
この遺跡とその周辺は、30kmほど離れたエーヴベリーの遺跡群とあわせストーンヘンジ、エーヴベリーと関連する遺跡群として1986年にユネスコの世界遺産に加えられた。また、登録古代モニュメントとして法的に保護されている。ストーンヘンジ自体は英国の国家遺産として保有・管理されている。周辺はナショナル・トラストが保有している。

ホリールード宮殿は、スコットランドのエディンバラにある宮殿。正式名称はホリールードハウス宮殿である。1128年にデイヴィッド1世によって建てられた寺院が前身である。15世紀から、スコットランド国王夫妻の住居として使われてきた。現在、宮殿はエリザベス2世の夏季の滞在地として使用されている。
15世紀、現在の宮殿北側にゲストハウスが建てられた。宮殿建設前にはスコットランド中世の王たちの多くがここに泊まったが、15世紀後半から宮殿は王の住居となった。ホリールードで1430年に生まれたジェームズ2世は、ここで戴冠し、結婚している。1498年から1501年まで、ジェームズ4世はホリールードを言葉通りの宮殿にすべく、新しい建築物を建てた。
宮殿内のメアリー1世の寝室
宮殿は、寺院の西側の回廊に位置し、四角形に建てられた。礼拝堂、ギャラリー、王族の居室、大ホールを含む。礼拝堂は現在の北部分にあり、女王の私室は南部分にある。宮殿の玄関と王のロッジは西側である。ジェームズ5世は、1528年から1536年の間に現在の北西塔を加えた。この塔には、かつてメアリー1世が住んでいた部屋がある。

ソールズベリー大聖堂(Salisbury Cathedral、正式名称:祝福されし聖処女マリア主教座聖堂、Cathedral Church of the Blessed Virgin Mary)は、イギリス、ソールズベリーにある大聖堂。イングランド国教会のカンタベリー大聖堂管区ソールズベリー教区の主教座聖堂である。
大聖堂は1220年に建造を開始し、1258年に大聖堂の身廊や翼廊、聖歌隊席などの主体部分が完成した。チャプター・ハウスと回廊は、1263年から1284年の間に工事が行われた。1265年に大聖堂の西ファサードができ、1330年に尖塔が完成した。全長123メートルの尖塔は後で建てられ、これはイギリスで最長の尖塔である。
ソールズベリー大聖堂は、短期間で完成したために、全体の様式が統一された。大聖堂は、当初の計画通りに建造されたイギリスでは数少ない大聖堂であり、しかも長い歴史の中で改築による変化も少なかった。パーベック大理石(英語版)を多く用いることによって、色彩の効果を大いに高めている。中世イングランドの大規模なゴシック建築である。
低い採光塔に代わり、1330年ごろ完成された交差部大塔を除いて、一貫して建てられた。様式は初期イギリス式 Early Englishでよくまとめられている傑作である。1220年から65年の45年という短い工期で、新しい敷地に新築されたものであり、当時のイギリス人の大聖堂に対する構想を自由に表現したものであるとされている。

クレイグミラー城(クレイグミラーじょう)は、スコットランド、エディンバラ近郊にある中世の城跡である。
クレイグミラーの男爵であったプレストン家が14世紀後半に建築を開始し、建設、増築工事は16世紀まで続けられた。1660年にこの城はジョン・ギルモア卿に売却され、彼によってさらなる改築が行われた。ギルモア家は18世紀にこの城を去り、この城は廃墟となった。また、この城はスコットランド女王メアリーが1566年、産後の体調不良の療養のために滞在したことで知られている。
クレイグミラー城はスコットランドに残る城壁に中でも特に保存状態が良い。中央塔を囲む尖塔とそれを守る15世紀の城壁が残存し、教会や鳩小屋の跡が確認できる。

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GoogleEarth映像:47都道府県 北海道-東北6県 [海外旅行]


「北海道」1道から成る地方を北海道地方と言い、人口5,475,783人で都道府県順位第8位、面積83,456.75km2で都道府県順位第1位、これは日本の総面積の約2割 (22.9%) に当たる。
北海道は、日本の北海道地方に位置する道。日本列島を構成する主要4島のひとつで、日本の北部に位置する島[* 1][* 2]。道庁所在地は札幌市。
47都道府県中唯一の「道」である。ブランド総合研究所による「都道府県の魅力度ランキング」で2019年現在、11年連続で1位に選ばれ、観光意欲度、産品購入意欲度でも1位、居住意欲度でも3位となっており、各意欲の面で高い評価を得ている。
明治政府は開拓使の設置に伴い名称の変更を検討。1869年(明治2年)、蝦夷地探査やアイヌとの交流を続けていた松浦武四郎は政府に建白書を提出し、「日高見道」「北加伊道」「海北道」「海島道」「東北道」「千島道」の6案を提示した。明治政府は「北加伊道」を基本とし「加伊」を「海」に改めた「北海道」とすることを決定。
北海道本島は面積77,983.90平方キロメートル、日本の島の中では本州に次ぐ第2位の面積で、世界の島の中ではアイルランド島に次ぐ第21位の面積を持ち、樺太(同第23位)よりやや大きく、台湾島35,980平方キロメートルの約2倍の大きさである。これは九州と四国を合わせた面積55,050.77平方キロメートルを上回る。

青森県は、日本の東北地方に位置する県。県庁所在地は青森市。
県の人口は全国31位、面積は全国8位。
青森県は東北地方及び本州の最北部でもあり、岩手県、秋田県を含む北東北の県である。県の人口は約125万人であり、日本の総人口の約1%を占め、県の面積は9,644km2で、国土の約2.5%を占める。県内の市町村数は40で、うち市は10、町は22、村は8あり、8つの郡がある。県人口の52%は青森市、八戸市、弘前市に居住する。
明治4年(1871年)9月に弘前町から青森町に県庁が移設された際に、県庁所在地となった青森町の地名がそのまま県名に採用されたものである。「青森」という地名は、江戸時代前期の寛永元年(1624年)に弘前藩が現在の青森市の場所に港町の建設を始めた時に名付けられたもので、現在の青森市本町付近に海上からの目印になる「青い森」(現在は消失)があったことが由来とされている。

秋田県
秋田県は、日本の東北地方に位置する県。県庁所在地及び最大の都市は秋田市。
現在の秋田県は、令制国での出羽国と陸奥国の各一部からなる。「秋田」の名前の由来は、飛鳥時代の斉明天皇4年(658年)に阿倍比羅夫の日本海遠征において、この地を訪れ地名を「齶田(あぎた)」と報告したことから始まる。「齶田(あぎた)」はアゴに似た地形から付けられたものだともいわれており、雄物川河口部の古地形のことを示している可能性がある。
その後、天平5年12月26日(734年2月4日)に庄内地方にあったとされる出羽柵が高清水の岡に移し置かれ、後に天平宝字年間頃には、「秋田城」と呼ばれるようになり、「秋田」の表記で定着した。中世後期には日本最古の海洋法規集には三津七湊の一つとして「秋田湊」と呼ばれ重要な湊の一つに数えられた。
秋田県の人口は96万9462人(2019年6月現在)で、全国38位。人口増減率は6年連続全国最下位や東日本大震災で、全国的にも最も人口減少が進んでいる地域の一つである。出生から死亡を引いた自然増減率、転入者から転出者を引いた社会増減率共に全国最下位だった。

岩手県 (中尊寺金色堂 毛越寺)
岩手県は、日本の東北地方に位置する県。県庁所在地は盛岡市。
東北地方の北部(北東北)に所在し、北は青森県、西は秋田県、南は宮城県と境界を接している。面積は15,275.01km2で、日本の都道府県としては、北海道に次いで2番目に広い。県の人口およそ125万人のうち、100万人以上は、内陸部の北上盆地に集中している。盆地と海岸部以外は山地や丘陵地が多く、緑豊かな県である。
江戸時代の幕藩時代は、現在の岩手県の前身にあたる地域は南部藩の北部と伊達藩の南部で構成されていた(このため県内において、呼称としての「南部」は地理的な意味とは逆に県北部を指す場合がある)。また、岩手県内で陸前に該当する地域は釜石以南の三陸地方のみである。南部(県北)地域は陸中に当たる。
江戸時代には、県の南部は概ね仙台藩伊達氏に62万石、一関藩は田村氏、水沢には留守氏(水沢伊達氏)が置かれ、北部は移封も無く盛岡藩南部氏によって20万石統治された。幕末に東北諸藩が奥羽越列藩同盟(北部政府)を作ると、現在の岩手県を支配していた伊達藩・南部藩はその中心となるが、結局敗れて明治政府によって占領された。

山形県 (上山城 
山形県は、日本の東北地方に位置する県。県庁所在地は山形市。
今から約3万年前頃(後期旧石器時代)に大型哺乳動物(ナウマンゾウ、オオツノシカ、ヘラジカなど)を狩猟する人々が山形に現れた。その時代の遺跡として最上川(真木遺跡朝日町、明神山遺跡寒河江市)や荒川(荒川遺跡小国町)・赤川などの主要河川やその支流の河岸段丘上に100カ所以上見つかっている。それらの遺跡からは、槍先に使う斜軸尖頭器や木の枝や骨に溝を付けそこに埋め込み利器とした石刃などの狩猟用道具が多く発見されている。
平安時代山形県地域には数多くの荘園が見られ、その多くは摂関家荘園であった。後期になると奥州藤原氏が荘園を管理したが、その滅亡と共に地頭請の武士たちが入部した。南北朝時代には陸奥国の奥州探題・斯波氏が分派して山形に勢力を扶植し、地名を採って最上氏と称した。また、室町時代初期に陸奥国伊達郡を拠点としていた伊達氏が置賜地方に侵攻し、長井氏領を支配下においた。
戦国時代は最上郡(現・村山地方)の最上氏、置賜郡の伊達氏(天文の乱の後、本拠を伊達郡から米沢に移した)、庄内の大宝寺氏が割拠した。最上氏は最上義光、伊達氏は伊達政宗の名将が登場し、一大版図を築いた。豊臣秀吉の奥州仕置と米沢への上杉氏の転封により、関ヶ原の戦いにおいては、会津・上杉軍と山形・最上氏との間で激戦が繰り広げられた。
江戸時代初期に最上氏が改易となると、山形藩に鳥居忠政が入り、その縁戚関係として庄内藩に酒井忠勝、新庄藩に戸沢政盛、上山藩に松平重忠が入った。その他、米沢藩、米沢新田藩、松山藩、天童藩、長瀞藩の各藩と20万石に及ぶ天領があった。明治時代の地方区分では、羽前国全域と、羽後国の飽海郡が、現在の山形県に相当する。

宮城県 (青葉城址 白石城
宮城県は、日本の東北地方に位置する県。県庁所在地及び最大の都市は仙台市。
現在の宮城県の地には、古墳時代からヤマト王権の影響力が及んでおり、雷神山古墳(名取市)や遠見塚古墳(仙台市)などの前方後円墳が造られた。雷神山古墳は東北地方の中では最大の古墳である。古墳時代後期には、厚葬禁止の令に従い、横穴式古墳も多く造られた。
鎌倉時代には、奥州藤原氏追討の恩賞により、葛西氏などの関東地方の有力氏族や武士たちが守護、地頭として現在の宮城県域に多く入植した。多賀城の留守所長官として陸奥国留守職に任ぜられたのが伊沢家景で、家景の子孫が留守氏を名乗るようになり、代々、陸奥国留守職に任ぜられた。
室町時代に入ると、南北朝の争いが起こったが、足利一族の斯波氏が奥州探題を称して多賀城に入ると、争いは次第に沈静化していった。
戦国時代になると、南東北の奥羽山脈西側に連なる盆地群に拠点を置く武将たちの勢力が強くなり、大崎氏の権勢は衰退し、最終的に伊達郡・信夫郡(福島盆地)と置賜郡(米沢盆地)を本拠地とする伊達氏の軍門に下った。伊達氏は源頼朝の奥州合戦で功を立てて伊達郡に封じられた関東武士の末裔で、鎌倉時代から伊達郡を中心に勢力を拡大した。
安土桃山時代に戦国大名の伊達政宗は常陸国の佐竹義重や会津地方の蘆名氏らに勝利し、領土を拡大した。しかし、政宗は豊臣秀吉に服属し、秀吉の奥州仕置によって、征服した会津地方などを奪い取られた。
伊達政宗は、豊臣氏や徳川氏との緊張関係を考慮して、天然の地形が防御に適した青葉山に居城として仙台城を構えた。慶長5年12月24日(1601年1月28日)に城の縄張りを始め、「千代(せんだい)」を「仙臺(仙台)」に改めて、城下町の建設も開始した。

福島県  (小川諏訪神社のシダレザクラ 小峰城跡 鶴ヶ城)
福島県は、日本の東北地方に位置する県。県庁所在地は福島市。
面積は北海道、岩手県に次ぐ全国3位、都道府県別の人口は全国21位、人口密度は全国40位である。
福島県は東西に長い形状をしているが、2つの山地によって浜通り・中通り・会津の3つの地域に分かれており、天気予報でもこの呼称が使われている。東から順に、太平洋と阿武隈高地に挟まれている浜通り、阿武隈高地と奥羽山脈に挟まれている中通り、そして奥羽山脈と越後山脈に挟まれている会津となっている。
福島県を含む北関東・東北地方における人の足跡は、後期旧石器時代に始まる。県域における遺跡としては平林遺跡(桑折町)や会津若松湊の笹山原遺跡群がある。この遺跡から旧石器時代人が製作し使用したとみられる石器群が発見されている。
中世においては源頼朝が鎌倉に幕府を開府し東国において自立するが、頼朝は東北において奥州征伐により奥州藤原氏を滅ぼす。
豊臣秀吉による奥州仕置により伊達政宗が伊達氏の元の本領以外没収され、会津には蒲生氏郷が入る。翌年の葛西大崎一揆の戦後処理で伊達政宗が岩出山に移封させられると、蒲生氏郷が福島県中通り以西のほとんどを領有した。しかし子の蒲生秀行は会津から宇都宮に移され、代わって越後国の上杉景勝が会津120万石を得て福島県の中通り以西のほとんどの地域と山形県の置賜地方を領有した。なお、葛西大崎一揆の原因を作ったとして所領を奪われた岩出山の旧領主の木村吉清は、後に許されて蒲生氏郷に仕えて杉目城主となった。

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前面展望:北海道 帯広市内[→]幕別町 [海外旅行]


 撮影映像日:2021年03月
帯広市内から幕別街内までの前面展望映像。
信号待ち、駐車場など停車中は、花火の合成映像したのと到着までの時間のカウント・ダウン時間を組込ました。
最後に「空想花火大会」映像を追加しました。

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指定文化財:特別史跡 皇居東御苑 東京都指定名勝 清澄庭園 登録有形文化財 椿山荘 象の鼻パーク [海外旅行]


清澄庭園は、東京都江東区清澄にある都立庭園。池の周囲に築山や名石を配置した回遊式林泉庭園で、東京都指定名勝に指定されている。
この地には元禄期の豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷があったと伝えられる。享保年間には下総関宿藩主・久世氏の下屋敷となり、ある程度の庭園が築かれたと推定されている。
1878年(明治11年)、荒廃していた邸地を三菱財閥創業者の岩崎弥太郎が買い取り、三菱社員の慰安と賓客接待を目的とした庭園の造成に着手。1880年(明治13年)に竣工し、深川親睦園と命名された。三菱社長の座を継いだ岩崎弥之助は庭園の泉水に隅田川の水を引き込むなど大きく手を加え、1891年(明治24年)に回遊式築山林泉庭園としての完成を見た。なお、1889年(明治22年)には庭園の西側にジョサイア・コンドル設計による洋館が建てられている。
その後、1923年(大正12年)に発生した関東大震災で庭園は大きな被害を受けて邸宅も焼失した。それを受けて1924年(大正13年)、三菱3代目社長の岩崎久弥は当時の東京市に庭園の東半分を公園用地として寄贈。市は大正記念館の移築(1929年5月竣工)や深川図書館の新館舎建設(同年6月竣工)など整備を進め、1932年(昭和7年)7月24日に清澄庭園として開園した。

椿山荘は、東京都文京区関口二丁目の小高い丘にある庭園。敷地内には大規模な宴会・コンベンション施設を持つホテル椿山荘東京を併設している。
武蔵野台地の東縁部にあたる関口台地に位置し神田川に面したこの地は、南北朝時代から椿が自生する景勝地だったため「つばきやま」と呼ばれ、江戸時代には久留里藩黒田家の下屋敷があった。
明治維新を経て西南戦争の功により、元勲の山縣有朋は年金740円を与えられ、それを元手に1878年(明治11年)旧屋敷を購入。「椿山荘」と命名して趣味である作庭を行った。1918年(大正7年)には大阪を本拠とする藤田財閥の二代目当主藤田平太郎男爵がこれを譲り受け、東京での別邸とした。
庭園は一般公開されており、椿や桜など植物、史跡等を鑑賞できる。庭園の頂上に建つ三重塔は、元々広島県賀茂郡入野(現東広島市)の竹林寺にあった塔で、創建時期は明らかではないが、平安前期に小野篁が創建し平清盛が第1回の修復を執り行ったという言い伝えがある。大正時代に強風にあって三層目が大破してしまったものを藤田平太郎が譲り受け、1925年(大正14年)に椿山荘に移築し、三層目を復元した。太平洋戦争末期、1945年(昭和20年)5月25日の空襲で発生した早稲田の火災の際も、木立に囲まれた環境もあり奇跡的にも三重塔と御神木は焼失を免れ、2003年(平成15年)国の登録有形文化財に登録された。

皇居東御苑は、東京都千代田区の皇居の東側に付属している広さ約21ヘクタールの庭園。宮内庁の管轄。皇宮警察がある。
当地はかつての江戸城の本丸・二の丸・三の丸に位置する。本丸には江戸幕府将軍の住居である本丸御殿や天守閣があり、城の中枢であった。
明治時代から第二次世界大戦前までは宮内省や皇室関連の施設があった。戦後の1963年に特別史跡に指定され、1968年10月1日から一般に公開されている。苑内は自然が豊かで、昭和天皇の発意により武蔵野の自然を模した二の丸雑木林や、果樹の古品種園、ヒレナガニシキゴイが放流されている池がある。このほか日本庭園や皇室関連の施設、江戸城の遺構など歴史的な史跡も見ることができ、国内のみならず海外からの旅行者も多く訪れる。現在でも宮内庁関係の施設があるため立ち入り禁止の区域がある。

象の鼻パークは、神奈川県横浜市中区海岸通1丁目にある公園で、横浜港発祥の地である。横浜みなとみらい21地区計画の3街区に当たる。
象の鼻波止場を明治中期の形状に復元し、横浜港開港150周年となる2009年(平成21年)6月2日に開園した。なお、今後も山下臨港線プロムナードの一部撤去など周辺の整備等が行われる予定である。
1859年(安政6年) 東波止場(イギリス波止場)と西波止場(税関波止場)の2本の突堤が幕府によって建設され、横浜港が開港。
1867年(慶応3年) 東波止場が弓なりに湾曲した形に築造され、その形状から象の鼻と呼ばれるようになる。
1896年(明治29年) イギリス人技師・パーマーの設計により西波止場の先端に大さん橋が築造され、西波止場の背面が埋め立てられる。
1923年(大正12年) 関東大震災により被災。その後、象の鼻波止場(東波止場)は直線に近い形状で復旧する。
2009年(平成21年) 横浜開港150周年を記念して、象の鼻波止場が明治中期頃の形状に復元され、開園。設計者は小泉雅生。

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Google映像:アメリカ国立公園 デスバレー、ヨセミテ、グランドキャニオン [海外旅行]


モノ湖とは、アメリカ合衆国カリフォルニア州モノ郡にある、アルカリ性で非常に塩分濃度の高い塩湖である。
ロングバレー噴火の時期である少なくとも76万年前に形成されたと考えられている。灰の層の下の堆積物から、モノ湖はネバダ州とユタ州の大部分を占めていたより大きく古い湖の名残であり、北アメリカで最も古い湖の一つであることが示される。『モノ』とは現地のネイティブアメリカンの言葉で『ハエ』を意味する。

ヨセミテ渓谷は、アメリカ合衆国カリフォルニア州、シエラネバダ山脈西側斜面のヨセミテ国立公園にある氷河の作用でできた渓谷である

ヨセミテバレービューは、ヨセミテ国立公園の中で眺めの良い場所

デスヴァレーは、アメリカのカリフォルニア州中部、モハーヴェ砂漠の北に位置する深く乾燥した盆地で、デスヴァレー国立公園の中核をなしている。また、世界最高の気温56.7°C(134.0°F)を記録したこともある
全長は約225キロメートルで、カリフォルニア州とネヴァダ州の境界に沿って伸びている。デスヴァレーはグレートベースン内でシエラネヴァダ山脈の南東に位置する。東側の境界はグレイプヴェイン山地、フューネラル山地、アマルゴーサ山脈、西側の境界はコットンウッド山地とパナミント山脈である。

グランド・キャニオン(Grand Canyon)はアメリカ合衆国アリゾナ州北部にある峡谷である。コロラド高原が長年のコロラド川による浸食作用で削り出された地形である。先カンブリア時代からペルム紀までの地層の重なりが好露出しており、肉眼で観察が可能である。地球の歴史を刻んでいる価値と共に、その雄大な景観から、合衆国の初期の国立公園の一つであるグランド・キャニオン国立公園に含まれている。国立公園は1979年に世界遺産に登録された。


フーバーダム(Hoover Dam)は、アメリカ合衆国の多目的ダム。アリゾナ州とネバダ州の州境に位置するコロラド川のブラック峡谷にある。

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