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東京都:岡本太郎の壁画 [東京都]

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東横線渋谷駅経由浅草へ行く途中で新聞で話題になっていました岡本太郎の壁画

Wikipediaからの抜粋ですが「岡本 太郎(おかもと たろう、1911年2月26日 - 1996年1月7日)は、日本の芸術家。抽象絵画やシュルレアリスムとも関わり、縄文や沖縄の魅力に再注目した人物でもある。平面・立体作品を数多く残し、文筆活動も精力的に行った。

岡本太郎(以下太郎)は神奈川県橘樹郡高津村(現在の川崎市高津区二子)で、漫画家の岡本一平、歌人で作家・かの子との間に長男として生まれる。
父一平は太郎誕生後、夏目漱石の勧めで朝日新聞社に入社し、漫画散文という独自のスタイルを築く。一方母かの子は、二子の大地主・大貫家の長女として乳母日傘で育ち、若い時分より創作に没頭。 お嬢さん育ちで世間知らずの芸術家であり、一般的な家政や子育てが全く出来ない人だった。
太郎は慶應義塾幼稚舎に入学し周囲の人気者であったが、勉強に関しては惨憺たるもので、成績は52人中の52番。ちなみに一つ上の51番は、後に国民栄誉賞を受賞することになる歌手の藤山一郎である。
その後美術学校に入学したばかりの太郎も「絵の修業ならパリで」ということで、母も含めて一家三人でヨーロッパを長期外遊することとなる。フランス語を勉強するためにパリ郊外の中学の宿舎で生活。すぐに言葉を覚え、半年後にはパリ大学ソルボンヌ校で学ぶようになる。

芸術への迷いは相変わらずだったが、偶然立ち寄った画廊に展示してあったピカソの抽象絵画[2]を見た太郎は強い衝撃を受ける。そして「ピカソを超える」事を決意し、以後抽象芸術に道を求める事となる。
1970年に大阪で万国博覧会が開催される事が決まり、太郎に白羽の矢が立つ。「とにかくべらぼうなものを作ってやる」とひたすら構想を練った。こうして前衛的で巨大な塔が出来上がったのだが、「牛乳瓶のお化け」「日本の恥辱」などと痛烈なバッシングを浴びる。
・・・・・」と記載されれています。

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「太陽の塔」:Wikipediaからの抜粋
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東京都調布市:深大寺 [東京都]

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東京都調布市にある深大寺

Wikipediaからの抜粋ですが「深大寺(じんだいじ)は、東京都調布市にある天台宗別格本山の仏教寺院である。山号は浮岳山。詳しくは浮岳山昌楽院深大寺と称する。深大寺」の名称は、仏法を求めて天竺(インド)を旅した中国僧玄奘三蔵を守護したとされる神「深沙大将」(じんじゃだいおう)にちなむと伝える。本尊は本堂に安置の阿弥陀三尊像。関東では浅草の浅草寺に次ぐ古刹である。山門前は門前町の雰囲気で、名物「深大寺そば」の店や土産物店が軒を並べる。寺院参詣とともに、門前町の趣きを味わうために訪れる人も多い。」と記載されれています。

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元三大師堂:Wikipediaからの抜粋
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東京都調布市:西光寺 [東京都]

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東京都調布市にある西光寺と新撰組長近藤勇の映像です。

西光寺は開山は応永年間(1394~1428)とされ、はじめは真言宗に属していたが、その後弁盛上人(後に深大寺に移り、縁起を書いた)のとき天台宗となった。徳川家光より寺領14石2斗を受けた御朱印寺であった。
宝暦年間(1751~64)本堂・庫裡・薬師堂・楼門など、かなり壮大な規模の堂宇が建設されたと伝えられているが、明治12年の火災で、山門、楼門などを除いて多くの物を焼失している。

調布に生まれた新選組局長・近藤勇は、鳥羽伏見の戦いに敗れた慶応3(1867)年3月甲陽鎮撫隊を編成し、甲州街道を甲府に向けて出陣した。途中故郷上石原のここ西光寺で休息し、遙か若宮八幡宮に戦勝を祈願したという。
しかし勝沼・柏尾山の戦いで官軍に敗れ、二度と故郷へ戻ることはなかった。旧甲州街道に面した西光寺の門前には、道行く人を見守った常夜燈、西南戦争に従軍した地元出身の人々の招魂碑に並んで彼の座像が置かれている。」と記載されています。

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壬生寺にある近藤勇の像:Wikipediaからの抜粋
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江戸城:大手門 [東京都]

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江戸城関連映像は大手門です。
大手門とは、日本の城郭における内部二の丸または、三の丸などの曲輪へ通じる虎口に設けられた門。

大橋さんHPからの抜粋「江戸城大手門を外桝形としたのは、東北の雄伊達政宗らで、政宗は自ら大手門の工事を買って出たといわれる。 大手門の警固は、十万石以上の譜代大名が受け持ち、『徳川盛世録巻之二』によると、鉄砲30丁、弓10張、持弓2組、持筒2丁、長柄槍20筋が常備されていた。」と記載されています。

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大手門の工事を買って出た伊達政宗の騎馬像:Wikipediaからの抜粋
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高幡不動 [東京都]

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東京都日野市にある高幡不動の五重塔と新撰組副長土方歳三の銅像も含めた映像です。

Wikipediaからの抜粋ですが「金剛寺(こんごうじ)は、東京都日野市高幡にある真言宗智山派別格本山の寺院。高幡不動の通称で知られる。本尊は不動明王。寺号は高幡山明王院金剛寺と称する。

草創は古文書によれば大宝年間(701―704)以前とも或いは奈良時代行基菩薩の開基とも伝えられるが、今を去る1100年前、平安時代初期に慈覚大師円仁が清和天皇の勅願により東関鎮護の霊場を高幡山山上に開いたのが始まりとされ、「高幡のお不動さん」と呼ばれ人々の信仰を集めており、毎月28日の縁日には多くの参詣者で賑わう。

新選組副長として活躍した土方歳三の菩提寺である縁から境内には土方歳三の銅像や殉節両雄の碑がある。 歳三の墓のある愛宕山石田寺(あたごさんせきでんじ)は末寺のひとつである。
」と記載されています。

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Wikipediaからの抜粋
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土方歳三
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石田寺にある歳三の墓
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土方歳三:Wikipediaからの抜粋
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函館土方歳三像:Wikipediaからの抜粋
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東京都庭園美術館 [東京都]

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「HPからの抜粋」

旧朝香宮邸だけあって外観、内部の創り、照明、飾り・・・などなど好奇心をくすぐる映像です。

Wikipediaからの抜粋ですが「東京都庭園美術館は、東京都港区白金台にある都立美術館である。旧朝香宮邸(きゅう あさかのみや てい)とも呼ばれる。武蔵野の面影を残す国立自然教育園に隣接した同館の敷地および建物は、香淳皇后の叔父にあたる朝香宮鳩彦王が1947年の皇籍離脱まで暮らした邸宅だった。1933年(昭和8年)に完成。当時流行のアールデコ様式の粋を尽くした瀟酒な建物で、東京都の有形文化財に指定されている。一階には大広間、大客室、大食堂などの公的スペースが主に配され、二階には寝室など宮家の私室が並ぶ。通常の展示では、建物全体の半分ほどが展示室として公開されている。」と記載されています。

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東京湾花火大会 [東京都]

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2008年8月10日撮影、ビルの屋上から撮影できました東京湾花火大会の映像です。

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江戸城:桜田門 [東京都]

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江戸城関連映像は桜田門です。私は、桜田門で最初に思い浮かぶのは井伊大老が暗殺された現場「桜田門外の変」です。このブログの歴史的な重要部分の画像は、大橋さんのHP掲載の情報を許可得て利用させて頂いています。

Wikipediaと大橋さんHPからの抜粋ですが「昔はこの付近に桜が多かったので、桜田門といわれるようになった。 元々この門は小田原街道の始点として「小田原口」と呼ばれていましたが、江戸時代の寛永13年(1636)に、日比谷入り江を埋め立てて桜田門として作り直されたようです。大正12年の関東大震災で一部破損し、改修されたため江戸時代と少し変わっています。昭和36年に国の重要文化財に指定され、皇居のなかでも最も美しい門ではないかと思います、昔は門前に木橋があった。

桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)は、安政7年3月3日(1860年3月24日)、江戸城桜田門外(東京都千代田区)にて水戸藩の浪士らが大老・井伊直弼の行列を襲撃し暗殺した事件である。主な背景は
勅許が得られないまま独断で安政の五ヶ国条約に調印し、一橋派・南紀派の将軍継嗣問題を強行に裁決したうえ、安政の大獄で反対勢力を弾圧していた井伊直弼に対し、藩主の父・徳川斉昭への謹慎処分などで特に反発の多かった水戸藩士17名と薩摩藩士1名は,万延元年3月3日の朝,登城途中の井伊大老の行列に桜田門外で切り込み,大老は刺殺された。」

投稿済みの「豪徳寺」には、井伊直弼のお墓があるお寺です。

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井伊直弼:Wikipediaより抜粋
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江戸時代の桜田門:大橋さんHPより
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現在の桜田門:大橋さんHPより
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井伊大老暗殺図:大橋さんHPより
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法務省旧本館 [東京都]

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法務省旧本館、現在も使用され国の重要文化財に指定されている貴重な建築物を撮ってきましたのでご覧下さい。明治維新政府は、近代的な官庁街の体裁を整えようと計画、霞ヶ関と築地本願寺を結ぶ大通りを軸に道路に沿って諸官庁を配置しようとする壮大な規模のものでしたが財政難で実現しなかったようです。

Wikipediaでは「務省旧本館(ほうむしょうきゅうほんかん)は、東京都千代田区霞が関にある歴史的建造物。
旧司法省庁舎として1895年に竣工したドイツ・ネオバロック様式の歴史主義建築である。基本設計は建築顧問官を務めていたお雇い外国人のドイツ人建築家ヘルマン・エンデ(Hermann Gustav Louis Ende)とヴィルヘルム・ベックマン(Wilhelm Bockmann)で、実施設計と工事監理は河合浩蔵が行った。」と記載されています。

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江戸城:桔梗門 [東京都]

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江戸城関連映像は桔梗門と桜田櫓です。大橋さんHPからの抜粋「かつては内桜田門と言っていた。この門は三の丸に入る南門で,幕府の要職者が登下乗する門であり、大門六門の一つとして厳重に警備され、門外に下馬札が有った。石垣が御影石で出来ていて立派なことが分かります。
道灌時代の泊船亭はこの辺りだったといわれている。道灌の桔梗紋が屋根瓦に残っていたので桔梗門と名前になったという説や,船で各大名がここから帰郷したので「帰郷」が「桔梗」になったという説,どれが本当なのか定かではないと記載されていました。
桜田櫓は巽櫓ともいわれる。江戸城に残る唯一の隅櫓で、その姿は美しく濠に映えている。櫓の中には有事に備えて、鉄砲・弓・長柄・持筒などが保管されていたという。
白亜漆喰総塗込めで横に二条の線があり、出窓状の突き出しが石落としで、弓や鉄砲を撃つ狭間を持っている。江戸城にはこのような二重または三重の櫓が20基もあったが、今では富士見櫓・伏見櫓の三基が残っているだけである。」と記載されています。

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