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日本の歴史 : 京都仁和寺 [海外旅行]



仁和寺は、京都市右京区御室にある真言宗御室派の総本山の寺院。山号は大内山。本尊は阿弥陀如来。開基(創立者)は宇多天皇。「古都京都の文化財」の構成資産として、世界遺産に登録されている。
仁和寺は平安時代後期、光孝天皇の勅願で仁和2年(886年)に建てられ始めた。しかし、光孝天皇は寺の完成を見ずに翌年崩御し、その遺志を引き継いだ子の宇多天皇によって仁和4年(888年)に落成した。当初「西山御願寺」と称され、やがて元号をとって仁和寺と号した。
仁和寺の初代別当は天台宗の幽仙であったが、宇多天皇が真言宗の益信を戒師として出家したのを機に、別当を同じ真言宗の観賢に交替させた。これによって当寺は真言宗の寺院として定着した。
出家した宇多天皇は宇多法皇として仁和寺伽藍の南西に「御室」(おむろ)と呼ばれる僧坊を建てて住した。そのため、仁和寺は「御室御所」とも称された。
その後、代々の別当は宇多天皇の子孫が務めていた。そこに、三条天皇の皇子である性信入道親王が別当の上に新設された検校に任じられた。これ以降、当寺は皇族の子弟が入る寺院とみなされるようになった[4]。仁和寺はその後も皇族や貴族の保護を受け、明治時代に至るまで、覚法法親王など皇子や皇族が歴代の門跡(住職)を務め、門跡寺院の筆頭として仏教各宗を統括した。非皇族で仁和寺門跡になった人物に九条道家の子法助と足利義満の子法尊の2名がいるが、ともに当時の朝廷における絶対的な権力者の息子でかつ後に准后に叙せられるなど皇族門跡に匹敵する社会的地位を有していた。
室町時代にはやや衰退していたが、応仁の乱(1467年 - 1477年)が勃発すると、東軍の兵によって焼かれ、伽藍は全焼した。ただ、被害を被る前に本尊の阿弥陀三尊像は運び出されており、焼失を免れている。
この後、仁和寺は本尊と共に、双ヶ丘の西麓にある西方寺へ寺基を移している。
天正19年(1591年)、仁和寺は関白豊臣秀吉によって860石の朱印地を得、次いで元和3年(1617年)に江戸幕府将軍徳川秀忠によって1,500石の朱印地を得ている。
『仁和寺御伝』によると、寛永11年(1634年)7月24日、仁和寺第21世覚深法親王は上洛していた将軍徳川家光に仁和寺の再興を申し入れ、承諾されている。これにより、仁和寺は幕府の支援を得て伽藍が整備されることとなった。また、寛永年間(1624年 - 1645年)の御所(現・京都御所)建て替えに伴い、御所の紫宸殿、清涼殿、常御殿などが仁和寺に下賜され、境内に移築されている。
この江戸期の再建に際しては、門跡補佐の僧・顕證が仁和寺で使われている仁和寺の寺号入りの軒丸瓦のデザインや、再建される伽藍の配置構想や金堂に祀る仏像の選定などを行っている。また、経典・密教経典の儀軌などの聖教、仁和寺に伝わる古文書の管理・収蔵のために経蔵の建立を発願し、完成させている。霊宝館に顕證上人像が収蔵されているが、小さく、衣体も顕證が普段使用していた袈裟を身に付けているという。

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