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世界遺産:ドイツ ケルン大聖堂 [世界遺産]


ケルン大聖堂。ゴシック様式の建築物としては世界最大であり、ローマ・カトリック教会のミサが行われている。
現存の大聖堂は3代目で、初代が完成したのは4世紀のことであった。正方形の建物で、もっとも古い聖堂として知られていた。 
2代目は818年に完成し、12世紀後半に東方三博士の聖遺物が置かれたことで多くの巡礼者を集めてケルンの発展に貢献したが、1248年4月30日に火災で焼失した。その年の8月15日に礎石が据えられて3代目の建設が始まったが、16世紀に入って宗教改革を発端とした財政難のため工事が途絶し、正面のファサードの塔がひとつしかない状態が続いた。建設が再開されるのは19世紀に入ってからだった。
ナポレオン戦争の影響によりドイツでナショナリズムが高揚する中、中世ドイツに自民族の伝統を探し求める動きが強まった。建築ではゴシック・リヴァイヴァルの潮流が強まり、建設途中であったケルン大聖堂に注目が集まったため、1842年に建設が再開され、もうひとつの塔の完成が急がれた。すべてが完成したのは建設開始から600年以上が経過した1880年のことである。同年8月14日にはドイツ皇帝ヴィルヘルム1世臨席の下、国家行事として完成祝賀式典が催された。高さ157メートルの大聖堂はアメリカのワシントン記念塔(高さ169メートル)が完成する1884年まで建築物としては世界一の高さを誇った。「皇帝の鐘」と称される鐘が南塔にとりつけられたが、第一次世界大戦の際に接収され、溶かして武器の生産にあてられてしまった。
大聖堂は第二次世界大戦時のケルン市に対する英米軍の空襲で14発の直撃弾を受けた。内部は激しく破壊されたものの全体は崩れなかったため、1956年まで復旧工事が行われ、元の状態に復元された。この際に周囲の廃墟から再利用した粗悪なレンガで復旧された部分が残っていたが、1990年代に入り空襲前の外観に戻す作業が始まっている。また、修復の一環として破損したステンドグラスの一部がゲルハルト・リヒターによる近代的なモザイク風の市松模様のものに置き換えられたが、これについてはいまだに賛否両論がある。
1996年、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されたものの、周辺の高層建築物計画による景観破壊の危機にさらされた。2004年には危機遺産に指定されたが、大聖堂の周囲に高さ規制を敷くなど市当局の懸命な努力により2006年をもって解除された。


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世界遺産:ロシア ポクロフ・ナ・ネルリ聖堂 [海外旅行]


リカ・ネルリ川のほとりにある生神女庇護聖堂は、中世ロシアの代表的正教会の聖堂であり、生神女庇護祭を記念している。ポクロフ聖堂、ポクロフ・ナ・ネルリ聖堂とも。
教会はボゴリュボヴォの、ネルリ川とクリャージマ川の合流点にあり、古都ウラジーミルの13キロ北東に位置する。
戦死した自身の息子を弔うためにアンドレイ・ボゴリュブスキーによって1165年に建築を依頼されたこの聖堂は、アンドレイの石造の城と回廊によって連結されていた。この建築物は白い石によって建てられ、1つのドームを持ち、内部には4つの柱がある。外見をよりスレンダーにみせるために意図的に建築面積を小さくしているため、奉神礼の実行にはやや狭くて暗い内部空間となっている。
長い年月にわたり、この記念碑的教会はボゴリュボヴォの宮殿を訪れる人々を迎え入れてきた。春には、かつてはこの地域は洪水に見舞われ、教会は洪水の水に浮かぶかのような姿を呈した。回廊は取り壊されドームの形は僅かに作り変えられたが、教会自体は手を付けられずに後世に残った。壁は今でも12世紀の彫刻によって覆われている。
1992年には、ウラジーミルとスーズダリの白亜の建造物群の一部としてユネスコの世界遺産に登録された。

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羊山公園:芝桜 [海外旅行]


シバザクラ(芝桜)はハナシノブ科の多年草。別名、ハナツメクサ(花詰草、花爪草)。
羊山公園は、秩父市の東側に位置し、県立武甲自然公園の西北部に含まれ、緑豊かな自然に囲まれた羊山公園は、市民のいこいの場として親しまれています。春の芝桜をはじめとする四季折々の自然の風景は、公園を訪れる人々を迎えています。
4・5月頃にサクラに似た形の淡桃、赤、薄紫、あるいは白色の花を咲かせる。葉形やその匍匐性などから芝桜と名付けられた。葉は1センチ程度と小さく披針形で硬い。よく枝分かれし地面を覆い尽くすように密生する。また寒暑や乾燥に強く常緑のため芝生代わりに植えられていることもある。

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ドイツ三大名城:ハイデルベルグ城 [海外旅行]


ハイデルベルクは、ドイツ連邦共和国バーデン=ヴュルテンベルク州北西部に位置する都市。ライン川とネッカー川の合流点近くに位置する。ネッカー川及び旧市街を見下ろす高台にあるかつてのプファルツ選帝侯の宮廷であった城跡や、ドイツで最も古い大学ループレヒト=カールス大学で知られ、世界中の数多くの観光客や学者を惹きつけている。人口140,000人強のこの都市はバーデン=ヴュルテンベルク州で5番目に大きな都市である。この都市は郡独立市であると同時にライン=ネッカー郡の郡庁所在地でもある。ハイデルベルクが近隣のマンハイムやルートヴィヒスハーフェン・アム・ラインと形成する人口密集地域はライン=ネッカー大都市圏と呼ばれている。
ドイツ最古の大学があるハイデルベルクは、17 世紀の戦争で大きな被害を受け、18 世紀に再建された際にバロック様式の建築物が建てられました。 旧市街のゴシック様式の通りを散策してみましょう。 街のシンボルであるハイデルベルク城、18 世紀の美しい橋アルテ ブリュッケ、そして学生牢は必見です。 16 世紀に建てられた学生牢は、悪さをした学生を 3 日~ 1 か月収監するために使われていました。

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ユネスコ村自然散策園:ところざわのゆり園 [海外旅行]


ところざわのゆり園は、埼玉県所沢市上山口にある西武鉄道株式会社が運営するレジャー施設の名称。毎年6月上旬(もしくは5月下旬)から7月中旬(または上旬)のみ営業している。
毎年期間中、30,000 m2の自然林に咲く45万株の百合の花が、家族連れなど多くの来園者を楽しませている。
2005年6月4日『ユネスコ村自然散策園・ゆり園』としてオープン。当時はユネスコ村大恐竜探検館との並行営業だったため、ユネスコ村の名前を冠していた。2006年9月30日にユネスコ村大恐竜探検館が閉館になるとともに、2007年度よりユネスコ村の冠名称がとれ『ゆり園』と表記を変更[1]、その後2011年度頃より『ところざわのゆり園』と表記を再度変更[2]して現在に至っている(大抵は『ゆり園』のみ表記することが多い)。

狭山丘陵の地形を生かした約30,000 m2の園内に、早咲きのスカシユリや、遅咲きのハイブリッド種などおおよそ50品種・約45万株のユリが咲く[3]。散策コースは2種類あり、花を眺めながら森林浴などが楽しめる。

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世界遺産 中国:黄龍の景観と歴史地域 [海外旅行]


黄龍風景区(こうりゅうふうけいく)は中国四川省アバ・チベット族チャン族自治州松潘県にある景勝地。「黄龍の景観と歴史地域」としてユネスコの世界遺産(自然遺産)に登録されている。絶滅危惧種であるジャイアントパンダや金絲猴の貴重な生息地でもあり、2000年にユネスコの生物圏保護区に指定された。
岷山山脈の南側に位置しており、四川省の省都成都から北に約230km離れている。

黄龍は、岷山山脈の一部である玉翠山の山頂(標高約5100m)から北に向かって伸びる全長7.5kmの峡谷(黄龍溝)であり、世界有数のカルスト地形である。新生代第四紀に隆起した石灰岩層が氷河に侵食されて巨大な峡谷となり、そこに石灰分の豊富な水が流れ続けた結果、石灰華の沈殿したエメラルドグリーンの美しい石灰華段(石灰華段丘とも)をはじめ、黄金色に輝く石灰華の層、そして石灰華の滝や谷が形成された。
黄色がかった乳白色の石灰華の連なりは、雪を頂いた山脈を昇ってゆく黄色い龍の姿にたとえられる。同風景区は中国唯一、非常に良い状態で残っている高原湿地帯であるとも言われる。
黄龍後寺(仏教)と黄龍中寺(道教)が現存している。いずれも明代創建で、合わせて黄龍寺と呼ばれる。

黄龍全体のうち、麓の「迎賓彩池」(標高3199m)から「五彩池」(標高3553m)までの約3.7kmの区間が風景区として整備されている。
水の色は場所によって黄色、緑色、青色、茶色と様々に変化して見え、晴天時は日光と相まって金色に輝く。中でも風景区最奥部にあり黄龍最大の石灰華段である「五彩池」、そして2番目の規模を持つ色彩鮮やかな「争艶池」は必見である。また、「金沙舗地」(標高3281m)は1500mの長さを持つ世界最長の石灰華層として知られる。
車道は無く、木製の遊歩道を徒歩のみで移動する。遊歩道のうち麓に近い区間は上り用と下り用に分けられている。往復4時間(上り2.5時間、下り1.5時間)程度の距離であるが、標高が高いうえ高低差が大きいことから高山病に注意すべきである。

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「謹賀新年」五重塔(1): 法隆寺,興正寺,東寺,仁和寺,法華経寺,池上本門寺  [海外旅行]


法隆寺
法隆寺は、奈良県生駒郡斑鳩町にある仏教寺院。聖徳宗の総本山である。別名は斑鳩寺(いかるがでら、鵤寺とも)、法隆学問寺など。
法隆寺は7世紀に創建され、古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設であり、聖徳太子ゆかりの寺院である。創建は金堂薬師如来像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』から推古天皇15年(607年)とされる。金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられる。境内の広さは約18万7千平方メートルで、西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群である。
法隆寺の建築物群は法起寺と共に、1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。建造物以外にも、飛鳥・奈良時代の仏像、仏教工芸品など多数の文化財を有する。
法隆寺のある斑鳩の地は、生駒山地の南端近くに位置し、大和川を通じて大和国(現・奈良県)と河内国(現・大阪府南部)とを結ぶ交通の要衝であった。付近には藤ノ木古墳を始めとする多くの古墳や古墳時代の遺跡が存在し、この地が古くから一つの文化圏を形成していたことをうかがわせる。
『日本書紀』によれば、聖徳太子こと厩戸皇子(用明天皇の皇子)は推古天皇9年(601年)、飛鳥からこの地に移ることを決意し、宮室(斑鳩宮)の建造に着手、推古天皇13年(605年)に斑鳩宮に移り住んだという。法隆寺の東院の所在地が斑鳩宮の故地である。この斑鳩宮に接して建立されたのが斑鳩寺、すなわち法隆寺であった。
その後、聖徳太子の弟来目皇子の子孫と伝えられる登美氏の支配下に置かれていたが、平安時代初頭には登美氏からの自立への動きが強まった。この過程で法隆寺側と登美氏との間で発生したのが、善愷訴訟事件である。
延長3年(925年)には西院伽藍のうち大講堂、鐘楼が焼失し、大講堂が再建されたのは数十年後の正暦元年(990年)のことであった。以後、永享7年(1435年)に南大門が焼失するなど、何度かの火災に遭ってはいるが、全山を焼失するような大火災には遭っておらず、建築、仏像をはじめ各時代の多くの文化財を今日に伝えている。
近世に入って、慶長年間(17世紀初頭)には豊臣秀頼によって、元禄 - 宝永年間(17世紀末~18世紀初頭)には江戸幕府5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院によって伽藍の修造が行われた。
五重塔(国宝)
木造五重塔として現存世界最古のもの。高さは32.55mであり、初重から五重までの屋根の逓減率(大きさの減少する率)が高いことがこの塔の特色で、五重の屋根の一辺は初重屋根の約半分である。初層から四重目までの柱間は通例の三間だが、五重目のみ二間とする。初重内陣には東面・西面・南面・北面それぞれに塔本四面具(国宝)と呼ばれる塑造の群像を安置する(計80点の塑像が国宝)。

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