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ドイツの古城:ホーエンシュヴァンガウ城 [海外旅行]


ホーエンシュヴァンガウ城は、ドイツ、バイエルン州フュッセン近郊、ホーエンシュヴァンガウにある、19世紀に建築された城である。マクシミリアン2世によって改築された。
1832年、マクシミリアン2世は12世紀に建設されたが廃墟になっていたシュヴァンシュタイン城を購入した。そして4年ほどの歳月を費やし、古城を改築した。これがホーエンシュヴァンガウ城である。ルートヴィヒ2世は幼年時代をホーエンシュヴァンガウ城で過ごした。
この城を含むシュヴァンガウという地名は直訳すると「白鳥の里」の意味であり、この地こそがリヒャルト・ワーグナーのオペラ『ローエングリン』で有名な白鳥伝説ゆかりの地であった。こうした地元の伝説にちなみ、ホーエンシュヴァンガウ城には、至る所に中世騎士伝説を描いた壁画が描かれており、「ローエングリン」の壁画も当然そこに含まれている。この城で幼少期を過ごしたルートヴィヒ2世が長じた後、ワーグナーのローエングリンに魅了され、伝説と現実の境界を見失うようになってしまう遠因をここに求める研究者は多い。
ルートヴィヒ2世は後に、このホーエンシュヴァンガウ城の近隣にノイシュヴァンシュタイン城を建築した。

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国宝・重要文化財:京都 知恩院 [海外旅行]


知恩院は、京都府京都市東山区にある浄土宗総本山の寺院。山号は華頂山。詳名は華頂山知恩教院大谷寺。本尊は法然上人像(本堂)および阿弥陀如来(阿弥陀堂)、開基(創立者)は法然である。
浄土宗の宗祖・法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てられた寺院で、現在のような大規模な伽藍が建立されたのは、江戸時代以降である。徳川将軍家から庶民まで広く信仰を集め、今も京都の人々からは親しみを込めて「ちよいんさん」「ちおいんさん」と呼ばれている。

知恩院は、浄土宗の宗祖・法然房源空(法然)が東山吉水(よしみず)、現在の知恩院勢至堂付近に営んだ草庵をその起源とする。法然は平安時代末期の長承2年(1133年)、美作国(岡山県)に生まれた。13歳で比叡山に上り、15歳で僧・源光のもとで得度(出家)する。18歳で比叡山でも奥深い山中にある西塔黒谷の叡空に師事し、源光と叡空の名前の1字ずつを取って法然房源空と改名した。法然は唐時代の高僧・善導の著作『観経疏』を読んで「専修念仏」の思想に開眼し、浄土宗の開宗を決意して比叡山を下りた。承安5年(1175年)、43歳の時であった。「専修念仏」とは、いかなる者も、一心に弥陀(阿弥陀如来)の名を唱え続ければ極楽往生できるとする思想である。この思想は旧仏教側から激しく糾弾され、攻撃の的となった。法然は建永2年(1207年)には讃岐国(香川県)に流罪となり、4年後の建暦元年(1211年)には許されて都に戻るが、翌年の1月、80歳で没した。

現存の三門、本堂(御影堂)をはじめとする壮大な伽藍が建設されるのは江戸時代に入ってからのことである。浄土宗徒であった徳川家康は慶長13年(1608年)から知恩院の寺地を拡大し、諸堂の造営を行った。造営は江戸幕府2代将軍徳川秀忠に引き継がれ、現存の三門は元和7年(1621年)に建設された。寛永10年(1633年)の火災で、三門、経蔵、勢至堂を残しほぼ全焼するが、3代将軍徳川家光のもとでただちに再建が進められ、寛永18年(1641年)までにほぼ完成している。

国宝
本堂(御影堂)
三門
紙本著色法然上人絵伝48巻(国宝)-鎌倉時代の絵巻。
絹本著色阿弥陀二十五菩薩来迎図(国宝)-鎌倉時代の仏画。通称「早来迎(はやらいこう[注釈 1])」」
菩薩処胎経(魏大統十六年陶仵虎願経) – 中国・西魏時代の大統16年(550年)の書写。
大楼炭経 巻第三(唐咸亨四年蘇慶節敬造一切経)- 中国・唐時代の咸亨4年(673年)の書写。
上宮聖徳法王帝説 – 聖徳太子の伝記で、現存唯一の写本。平安時代後期。
以上のうち、菩薩処胎経以下の3件は、幕末から明治にかけて門主を務めた養鸕徹定(1814-1891)の収集品である。国宝指定物件のうち、絵画、書跡は京都および奈良の国立博物館に寄託されている。

重要文化財
建造物
大方丈(附:玄関及び歩廊)
小方丈(附:歩廊)
集會堂(しゅえどう)(附:玄関)
大庫裏(おおぐり)(附:歩廊及び玄関)- 雪香殿とも称する。
小庫裏(こぐり)(附:歩廊)
唐門
大鐘楼
経蔵
勢至堂

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世界遺産:イギリス プレナム宮殿、カンタベリー大聖堂、ダラム城、ダラム大聖堂 [海外旅行]


ブレナム宮殿は、イギリスのオックスフォード近郊のウッドストックにある宮殿。
マールバラ公ジョン・チャーチルが、スペイン継承戦争中のブレンハイム(ブレナム)の戦いで立てた戦功によって当時のアン女王から、ウッドストック (イングランド)(英語版)に建設中だった宮殿が下賜された。
本館と柱廊でつながった2つの翼棟からなるイギリス・バロック様式の屋敷は部屋数200以上をもち、庭園の総面積は4600ヘクタールに及ぶ。建築家ジョン・ヴァンブラの設計により17年の年月をかけ、1722年に完成した。
ブレナム宮殿を評価する上で、その庭園は重要な要素である。宮殿完成時には宮廷画家だったヘンリー・ワイズによって設計されたロマン主義的なイギリス式庭園だった。18世紀中頃、ランスロット・ブラウンによって人工湖や運河を配置した風景式庭園に改造された。その後、1925年から1932年のあいだにアシル・デュシェーヌの設計によるル・ノートル様式のフランス庭園に改造され今日に至っている。
1987年に世界遺産に登録された。
2019年9月14日未明に、館内に展示中であった「アメリカ」(America)と名付けられた18金の便器(イタリアの彫刻家マウリツィオ・カッテランの作品、報道担当者によれば時価500万ドル)が窃盗にあった。

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国宝・重要文化財:奈良県 室生寺 長谷寺 [海外旅行]


室生寺は、奈良県宇陀市にある真言宗室生寺派大本山の寺院。西国薬師四十九霊場第8番札所。「女人高野」の別称がある。
平安時代を通じて興福寺別院としての性格が強く、俗世を離れた山林修行の場、また、諸宗の学問道場としての性格も持っていた。中世以降の室生寺は密教色を強めるものの、なお興福寺の末寺であった。興福寺の傘下を離れ、真言宗寺院となるのは江戸時代のことである。真言宗の拠点である高野山がかつては女人禁制であったことから、女性の参詣が許されていた室生寺には「女人高野」の別名があるが、この別名は江戸時代以降のものである。

延暦19年(800年)頃の建立で、木部を朱塗りとする。屋外にある木造五重塔としては、法隆寺塔に次ぎわが国で2番目に古く、国宝・重要文化財指定の木造五重塔で屋外にあるものとしては日本最小である。高さは16メートル強、初重は1辺の長さ2.5メートルの小型の塔で、高さは興福寺五重塔の3分の1ほどである。
「国宝」
金堂
本堂(灌頂堂)
五重塔
木造釈迦如来立像 - 像高237.7センチ。金堂の本尊で、平安時代前期(9世紀)の作。カヤ材の一木造である。台座と光背は当初のものが残る。光背に七仏薬師が描かれている点、堂内に十二神将(薬師如来の眷属)が安置されている点などから、本来は釈迦如来でなく薬師如来として造立されたものである。本像を含め、堂内の諸仏は平らな板に絵具で図柄を表した「板光背」を負う点にも特色がある。これら板光背は平安時代の絵画資料としても貴重である[20]。
木造十一面観音立像 - 像高195.1センチ。平安時代前期(9世紀)の作。カヤ材の一木造である。板光背は後補。金堂内陣の向かって左端に安置されていた(2020年に寶物殿に移動)。本尊釈迦如来像とともに、「室生寺様」(-よう)と称される特有の作風を示す。[21]
木造釈迦如来坐像 - 像高106.3センチ。弥勒堂の本尊に向かって右に客仏として安置されていたが、2020年に寶物殿に移された。伝来や造像の由緒は一切不明だが、作風から平安時代前期(9世紀)の作とみられる。太く丸みのある衣文と細く鋭い衣文を交互に刻む翻波式(ほんぱしき)衣文は平安前期彫刻の特色だが、本像のように全面に翻波式衣文を駆使した作品は珍しい[22]。
板絵著色伝帝釈天曼荼羅図

重要文化財(国指定)
弥勒堂 - 鎌倉時代
御影堂(奥の院) - 室町時代前期
納経塔(石造二重塔) - 平安時代後期。五重塔西側の如意山山頂にあり、非公開。
五輪塔 附:小五輪塔二基、基壇(伝 北畠親房墓) - 室町時代前期。
木造文殊菩薩立像 - 金堂安置、平安時代
木造薬師如来立像 - 金堂安置、平安時代
木造地蔵菩薩立像 - 旧金堂安置、平安時代
木造十二神将立像 - 金堂安置(一部は寶物殿に移動)、鎌倉時代
木造弥勒菩薩立像 - 弥勒堂安置、平安時代
木造如意輪観音坐像 - 本堂安置、平安時代
両部大壇具 2具(明細は後出)
大神宮御正体 - 弘安十一年(1288年)銘

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特別天然記念物:長野県 上高地 [海外旅行]


上高地とは、長野県西部の飛騨山脈南部の梓川上流の景勝地である。中部山岳国立公園の一部ともなっており、国の文化財(特別名勝・特別天然記念物)に指定されている。標高約1,500m。全域が松本市に属する。「かみこうち」の名称は本来「神垣内」の漢字表記だが、後に現在の「上高地」の漢字表記が一般的となった。「神垣内」とは、穂高神社の祭神・「穂高見命」(ほたかみのみこと)が穂高岳に降臨し、この地(穂高神社奥宮と明神池)で祀られていることに由来する。
温泉があり、穂高連峰や槍ヶ岳の登山基地ともなっている。
上高地は、飛騨山脈(北アルプス)の谷間(梓川)にある、大正池から横尾までの前後約10km、幅最大約1kmの堆積平野である。かつて岐阜県側に流れていた梓川が焼岳火山群の白谷山の噴火活動によってせき止められ池が生じ、そこに土砂が堆積して生まれたと考えられている。狭義にはこの平野のうち、観光名所として知られる河童橋の周辺だけを指す場合もある。この高度でこれほどの広さの平坦地は、日本では他に例が少ない。

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レッドブル・エアレース:千葉県立幕張海浜公園 [海外旅行]


エアレース(Air Race)とは、飛行機を用いて飛行技術や機体性能を競いあうモータースポーツ。

初期には単純な速度競争や長距離を飛行するラリーレイドが盛んに行われ、マッキ M.C.72やデ・ハビランド DH.88 コメットのような専用機が多数製作された。国際航空連盟が1929年から1934年までツーリング機の技術評価、ヨーロッパを周回するラリー、最高速度の総合成績を競うツーリング機競技を行っていたが、第二次世界大戦の開戦により中断した。

その後は、航空機の性能向上により記録更新が難しくなったこともあり、機体性能の競争は行われなくなった。現代では指定された飛行ルートを最短時間で飛ぶタイムレースなど、操縦士の技量で優劣を付けるのが主流である。
操縦者や競技用に最適化した機体のことを「エアレーサー」と呼ぶ。エアレースは曲技飛行の一種であり、タイムではなく技の難易度や完成度を競うエアロバティックス型も行われている。

レッドブル・エアレース・ワールドチャンピオンシップ(英語: Red Bull Air Race World Championship)は2003年から2019年まで開催していた曲技飛行パイロットによるエアレースシリーズの総称。国際航空連盟公認のレースであった。
最高速度370 km/h、最大負荷10 Gにおよぶ過酷な空中タイムトライアルの連続でイベントが構成され「空のF1」とも形容される。厳しい競技環境に耐え得る強靭な肉体と、飛行機を正確に操る技術力・集中力が要求される競技であり、曲技飛行の国際選手権優勝者や空軍教官を経歴に持つパイロットが多数を占める。
身も選手として参戦していたピーター・ベゼネイが提案し、レッドブルの企画で2003年に始まった。

2011年からa2013年まで休止され、2014年からエンジンとプロペラを統一して再開された。日本では2015年(第2戦・2015年5月16日、17日)、2016年(第3戦・2016年6月4日(予選は中止)、5日)、2017年(第3戦・2017年6月3日、4日)、2018年(第3戦・2018年5月26日、27日)、2019年(第4戦・2019年9月7日、8日)に千葉県千葉市美浜区の幕張海浜公園で開催された[3]。
2019年5月29日、「レッドブルが主催する他の世界選手権と比較して、業界外から十分な興味を引くことができなかった」ことを理由に、同年9月の日本・幕張海浜公園でのレースを最後にシリーズを終了することが発表された。


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日本三大中華街:横浜中華街 [海外旅行]



横浜中華街は、神奈川県横浜市中区山下町一帯に所在するチャイナタウン(中華街)である。1955年以前は唐人町や南京町と呼ばれていた。華僑の出身地は広東省が比較的多いが、中国各地に分散している。上海路、中山路、福建路など、地名を冠した路地が交差しており、各路地には、当該地の出身者が多い。所在地である中区の中国人人口は6000人を超える。これは同区で登録されている外国人の約4割に当たる。
約0.2平方キロメートルのエリア内に500店以上もの店舗があり、日本最大かつ東アジア最大の中華街となっている。1866年(慶応2年)の横浜新田慰留地から数えると150年強もの歴史をもつことになる。神戸南京町や長崎新地中華街とともに「日本三大中華街」である。
1859年(安政6年)、横浜が開港すると外国人居留地(一種の租界)が造成され、欧米人とともに多数の中国人買弁(中国人商人や取引仲介者)や外国人外交官の雇い人が来住した。当初、彼らは香港や広東から来ていたため、広東省出身者が多かった。その後、横浜と上海、イギリスの植民地の香港の間に定期船航路が開設されると、中国人貿易商も来住し、居留地の一角(現在の山下町)に関帝廟、中華会館、中華学校などを建てていった。これが横浜中華街の原型である。
初期の埋め立て地「横浜新田」の海岸線沿いに建てられたため、この地域のみ区画が約45°ずれている。この頃の商店は日用雑貨店、衣料品店、食料品店などの店が大半で、中華料理店は多くなかった。1872年(明治5年)には、柳麺(lau min、ラウミン)の屋台が出始めていた。
1894年(明治27年)に日清戦争が勃発すると中国人の多くが帰国してしまうが、戦争が終わり、1899年(明治32年)に条約改正により居留地が廃止されると、中国人は職業制限を受けたものの、居留地外にも住むことを許された。袁世凱に追われ大日本帝国に亡命した孫文もこの地で華僑にかくまわれながら革命活動を続けている。
ただしこの時期は単に外国人街であり、特に中華街というわけではない。例えば1921年(大正10年)の横浜市商工案内によれば、この地区の総店舗数263軒中、日本人店149軒、欧米人店79軒に対して中国人店35軒であり、そのうち中華料理店はわずか5軒であった。一方1910年(明治43年)の『名誉鑑』では、有名な広東料理店として5軒を挙げており、1900年(明治33年)以降一挙に中華料理店が増えた。
1953年には、横浜市と横浜商工会議所が中心となり、「チャイナタウン復興計画」が策定された。1955年(昭和30年)には中華街大通りの入り口に「牌楼門」が建てられ、牌楼(門)の上「中華街」と書かれたことで、それまでは南京町と呼ばれていたこの街が次第に「中華街」と呼ばれるようになった。
1964年には石川町駅が開業して、多くの観光客が来るようになった一方、海上輸送がコンテナ化されたことで、外国人船員は徐々に姿を消していった[4]。1972年(昭和47年)に日中国交正常化が実現した年に、高橋柢祐を初代理事長に迎え、街づくりへの志を同じくする者が集う横浜中華街発展会協同組合が発足した。ハードウェア、ソフトウェア面での整備が進められたことで日本人が多数来場するようになり、横浜を代表する観光地の一つとして発展していった。

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前面展望映像:雪道の十勝ヒルズ [海外旅行]


十勝ヒルズは、北海道中川郡幕別町にある農と食に関するテーマパーク。
丘陵地にあり、好天時には帯広市街地などの十勝平野や日高山脈を眺めることができる。園内には6つの庭園(ガーデン)、ハンガリー料理や和食のレストラン、農家の木村秋則が提唱する自然栽培の畑やソバの畑、果樹園、ショップ・カフェなどが点在しているほか、チャペルや多目的ホールなどもある。

2016年、ハンガリーでは国宝認定されている豚、マンガリッツァを購入し繁殖と飼育に成功させて、2018年より十勝ロイヤルマンガリッツァ豚のブランド名で出荷を開始している。マンガリッツァ豚の繁殖と飼育事例としては日本初となる。

四季の彩りに満ちあふれた十勝ヒルズは、色鮮やかな草花と木々の緑が生き生きと輝く憩いと癒しの空間です。
どこまでも広がるその素晴らしい空間には、約1000種類の草花が散りばめられたガーデン、安心・安全・こだわりを追求した農作物が豊かに稔るヒルズファーム、そして雄大な景色を楽しみながら旬の食材を堪能できるこだわりのレストランが…。
すがすがしい空気の中で花や土に触れ、自然の息吹をたっぷりと体感してみてください。
きっと、豊かな自然の中で育まれる命の素晴らしさと愛おしさを「心」で感じることができるはずです。

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