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三大美城(ドイツ):「エルツ城」、「ホーエンツォレルン城」、「ノイシュヴァンシュタイン城」 [海外旅行]


エルツ城は、ドイツ連邦ラインラント=プファルツ州トリーアとコブレンツの間、モーゼル川沿いのアイフェル山地の上に建っている中世の城である。12世紀にそこに住んでいたエルツ家(en)の一族が33代にわたって代々所有し続けてきた。
ビュレスハイム城、エルツ城、リッシンゲン城は、ラインラント=プファルツ州のライン川の左岸にある城で、一度も破壊されたことが無い。
ノイシュバンシュタイン城、ホーエンツォレルン城とともに、ドイツ3大美城に数えられる。

Platt eltzは、ロマネスク様式の天守で、城の最古の部分であり、9世紀に土の塀を持つ単純な荘園として始まった。1157年において、この城はモーゼル谷とアイフェル地方からの貿易ルートに位置し、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の治める帝国の重要な地域であった。
1472年、Rübenach ハウスが後期ゴシック様式で建て、完成させた。注目すべきは、RübenachLower Hallというリビングルームと、Rübenach 家の寝室にある絢爛な飾り壁である。
1490年から1540年の間に、Rodendorf ハウスもまた後期ゴシック様式に変えた。
1604年から1661年までに、Kempenich ハウスが建てられた。この家は、他の家では1階か2階にのみ暖房できる部屋が置かれるが、各部屋に暖房が置かれた。
1563年、エルツ家とRodendorf家が結婚によって統合された。

1688年から1689年までの大同盟戦争でライン地方の多くの城が破壊された。しかし、エルツ家出身のHans Anton zu Eltz-Üttingenが、フランス軍の上級将校であったため、エルツ城は破壊を免れた。フランス統治時は、城と関連物件はコブレンツ司令部の物となった。後に、Hugo Philipp zu Eltz伯爵の下に財産が戻り、1815年にRübenach ハウスを購入し、以後は個人が所有する城となった。


ホーエンツォレルン城は、ドイツ帝国(ドイツ第二帝国)の皇帝家ホーエンツォレルン家の発祥の地に建つ城である。
ドイツ連邦共和国シュヴァーベン地方のバーデン=ヴュルテンベルク州のテュービンゲン行政管区(県)ツォレルンアルプ郡ヘヒンゲン市の南、海抜855メートルのホーエンツォレルン山の頂に建てられた城である。現在の城は三代目で、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世がプロイセン王になる前の太子であった時に再建を決め、没後の1867年に完成したものである。
ホーエンツォレルン家については11世紀までしかさかのぼれない。ホーエンツォレルン家の元の名であるツォレルン家の名は1061年にベルトルト・フォン・ライヒェナウの年代記に初めて現れる。

シュヴァーベンの一部を支配するのはツォレルン伯爵であった。1218年(または1214年)にツォレルン家は領地の分割を行って長男のコンラート1世がフランケンの領地とニュルンベルク城伯の地位を得て後のプロイセン王国の王家の祖となる一方、次男のフリードリヒ2世はシュヴァーベンの領地とツォレルン伯爵の地位を得た。
この血統は後にホーエンツォレルン=ヘヒンゲン家と呼ばれる。シュヴァーベンの空中楼閣 Castro Zolreについて1267年に言及されていることから、この頃にはツォレルン城はできていてツォレルン=ヘヒンゲン家の城であった。14世紀にツォレルン家をホーエンツォレルン家と改め、城名もツォレルン城からホーエンツォレルン城となる。
この城は1423年には完全に破壊されている。その後再建され、三十年戦争では要塞として使用された。その後は所有する城主が何度も代わっている。
同時にホーエンツォレルン=ヘヒンゲン家はプロテスタントに改宗せずカトリックのままで通していたが、ドイツ帝国成立直前の1869年に断絶した。


ノイシュヴァンシュタイン城は、ドイツ連邦共和国
南部のバイエルン州バイエルン・シュヴァーベン地方
オストアルゴイ郡シュヴァンガウ町
ホーエンシュヴァンガウ地区にある城である。
バイエルン王ルートヴィヒ2世によって19世紀に建築
された。オーストリア国境に近いオストアルゴイ郡
フュッセンの東南東方向(直線距離にて約4km)に
位置し、近隣には、ルートヴィヒ2世が幼少時代を
過ごし、彼の父親が所有していた
ホーエンシュヴァンガウ城がある。

ノイシュヴァンシュタインという名は、現在
ホーエンシュヴァンガウ城のある地にかつて
あったシュヴァンシュタイン城にちなみ、1886年に
なって付けられた名であり(「ノイ (Neu)」は
ドイツ語で「新しい」、シュタインは「石」の意)、
建設当時はホーエンシュヴァンガウ新城と
呼ばれていた。
シュヴァンガウは、「白鳥地区」の意味の地名で、
ホーエンシュヴァンガウは、上シュヴァンガウ村
のことである。
伝統的な建築方式で造られているように見えるが、
石造りではなく鉄骨組みのコンクリートおよび
モルタル製で、ドイツの城館に本来は必ずあるべき
小聖堂や墓地がない。これらの点から古建築保存を
目的とする世界遺産になっていないと思われてきたが、
2015年にリンダーホーフ城やヘレンキームゼー城
とともにユネスコの世界遺産暫定リストに登録され、
本申請を待っている。


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小田原市指定天然記念物:紹太寺の枝垂桜 [海外旅行]


長興山紹太寺
紹太寺は、神奈川県小田原市にある黄檗宗の寺院。山号は長興山。
この寺は、小田原城主稲葉正則の開基、黄檗宗の僧鉄牛道機の開山により小田原宿に創建された寺で、1669年(寛文9年)現在地に移された。かつては大伽藍を誇ったが、幕末の安政年間(1854年 - 1860年)に焼失した。
稲葉 正則は、江戸時代の譜代大名、老中、大政参与。相模小田原藩第2代藩主。初代藩主稲葉正勝の次男で、母は山田重利の娘。稲葉正成と春日局の嫡孫。正成系稲葉家宗家3代。
延宝8年(1680年)に1万5000石を加増、合わせて大政参与に任命された。同年5月8日に家綱が亡くなり、家綱の弟綱吉が5代将軍に就任して忠清が12月9日に大老を解任されると、翌天和元年(1681年)3月から越後騒動の再審を開始、7月8日に紅葉山の家綱の仏殿建立の奉行を務め、12月8日に大政参与を退いた。天和3年(1683年)閏5月27日隠居、家督を長男の正往に譲った。

元禄9年(1696年)、江戸で死去した。享年74。遺体は紹太寺に葬られた。遺領は正往が小田原藩10万2000石を相続、残りは他の息子たちに旗本領として分知された。

神奈川県小田原市に建つ江戸時代初期の小田原藩主稲葉氏一族の菩提寺で、ここに春日局も眠っています。境内には、藩主・稲葉正則が植えたとされる樹齢340年を超える「しだれ桜」があり、例年3月下旬から4月上旬のシーズンには、滝のような花をつけます。高さ約13m、株元周囲約4.7mの大木です。

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