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世界遺産:岐阜県 白川郷 [海外旅行]


白川郷は、岐阜県内の庄川流域の呼称である。
大野郡白川村と高山市荘川町(旧荘川村)および高山市清見町(旧清見村)の一部に相当し、白川村を「下白川郷」、他を「上白川郷」と呼ぶ[1]。今日では白川村のみを指すことが多い。白川郷の荻町地区は合掌造りの集落で知られる。独特の景観をなす集落が評価され、1976年重要伝統的建造物群保存地区として選定、1995年には五箇山(相倉地区、菅沼地区)と共に白川郷・五箇山の合掌造り集落として、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された[2]。白川郷の荻町地区は、今も実生活の場として使われているところに価値があり、それが他地域の合掌民家集落と違うところである。「世界遺産白川郷合掌造り保存財団」などがその保存にあたっている。毎年1月と2月頃の週末には夜間ライトアップが行われる。なお、2019年からライトアップ見学は完全予約制となった。

合掌造りは、日本の住宅建築様式の一つである。急勾配の屋根を持つことがしばしばであるが、現存する合掌造りの屋根は45度から60度まで、傾きにかなりの幅がある。
合掌造りの定義自体が一様ではないが、日本政府が白川郷と五箇山の集落をユネスコの世界遺産に推薦した時には、「小屋内を積極的に利用するために、叉首構造の切妻造り屋根とした茅葺きの家屋」と定義づけた。名称の由来は、掌を合わせたように三角形に組む丸太組みを「合掌」と呼ぶことから来たと推測されている。同じ白川郷(荘白川)でも、高山市の旧荘川村地域に残る合掌造りは、入母屋屋根になっている。

特徴
合掌造りは、茅葺(かやぶき)の叉首構造の屋根が大きな特徴となっており、とりわけ後の時代に建てられたものはその屋根が急勾配になっている。この傾斜は、豪雪による雪下ろしの作業軽減や多雨地帯でもあることによる水はけを考慮したものと考えられている。現在見られる合掌造りにも切妻屋根のもの(白川村や五箇山に多い)、入母屋屋根のもの(旧荘川村に多い)がある。残存している切妻屋根の家屋については、その方が屋根裏の作業スペースが多く取れるからと指摘されている。また、屋根の勾配を急にしたことは、屋根裏に二層もしくは三層の空間を確保することにつながり、豪雪への対策以外に養蚕業にとっても都合が良いものであった。世界の建築の一つとして国立民族学博物館には合掌造りの展示として、五箇山初の民宿「勇助」の模型が展示されている。

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世界遺産:ウシュマル遺跡 カンペチェ大聖堂 [海外旅行]


ウシュマル は、メキシコ、ユカタン州にある古典期後期から後古典期のマヤ文明の遺跡。
メリダの南方78kmの地点にあり、カンペチェへ向かうメキシコの高速自動車国道261号線で、メリダから110kmの地点にある。ウシュマルという地名は、オシュ=マハアルと発音されたと考えられ、マヤ語の研究者の間でその由来について論争があるが、コロンブス到着以前の古いマヤ語の名称と考えられ、「三度にわたって建てられた町」という意味である(cf.カラコルの旧名「オシュ=ウィツア」を見よ)。
多くの観光客の目的地となるためにウシュマルの建造物の整備や復元にたくさんの労力が注がれる一方で、細々とであるが真摯な考古学的な発掘調査や研究がなされてきた。この都市の占地が行われた時代はよくわかっていないが、人口は、現時点では概算で2万5千人ほどと推定されている。 今日目にすることのできる大多数の建造物は、だいたい紀元700年から1100年の間に建てられたものである。
マヤの年代記によれば、ウシュマルは、フン=ウィツィル=トゥトゥル=シウによって紀元500年に建てられた町であるという。ウシュマルは何代にもわたってシウ家によって支配され、ユカタン西部でもっとも強力な都市であった。そしてチチェン・イッツアと同盟を結んで北部ユカタン全域を支配していた。紀元1200年以降は主要な建築物を新たに建築することは行われなくなる。このことは、ウシュマルと同盟者チチェン・イッツアの衰退とマヤパンへユカタンの権力が移っていく過程と関係しているとおもわれる。 シウ家が、マニへ首都を移すとともに、ウシュマルの人口は減少していった。
スペインによる征服後、シウ家自身は、スペインの同盟者となったが、初期植民地時代の記録によると、ウシュマルは、1550年代までは、ある程度の数の人々が住む重要な場所であったが、そこにスペイン風の町が建てられることはなくやがてウシュマルは放棄されることとなった。

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重要文化財:千葉県 笠森観音寺、大多喜城、千葉寺、空想花火大会 [海外旅行]


最後に自前のアプリ(unity)で作成した部分を含む”空想花火大会”映像を組込ましたのでご覧ください。

笠森寺は、千葉県長生郡長南町笠森にある寺院、天台宗別格大本山、坂東三十三箇所の第三十一番札所、山号は大悲山。
寺伝によれば延暦3年(784年)に最澄(伝教大師)が楠の霊木で十一面観音菩薩を刻み安置し開基されたとされる古刹で、古来より巡礼の霊場として知られており、十一面観音像が本尊であることから「笠森観音」と通称される。
大岩の上にそびえる観音堂は、61本の柱で支えられた四方懸造と呼ばれる構造で、日本で唯一の特異な建築様式であり重要文化財である。長元元年(1028年)に後一条天皇の勅願で建立されたと伝えられているがその後焼失し、現在の建物は解体修理の際発見された墨書銘から文禄年間(1592年-1595年)の再建とされている。観音堂の 75段の階段を上がった回廊からは、四季それぞれに美しい房総の山々が眼下に眺められ、その景観は一見に価する。他にも重要文化財の鋳銅唐草文釣燈籠など多くの文化財も残されている。
 重要文化財(国指定)
観音堂(階段及び踊場を含む) - 安土桃山時代(1597年)の建立。四方懸造、桁行五間、梁間四間、一重、寄棟造、銅板葺、階段及び踊場を含む。明治41年(1908年)08月01日指定。
鋳銅唐草文釣燈籠 2基 - 室町時代の作品。昭和34年(1959年)06月27日指定。

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前面展望映像:クアラルンプール KLモノレール [海外旅行]


KLモノレールは、マレーシアのクアラルンプール市・KLセントラル駅からティティワンサ駅を結ぶ、アルヴェーグ式モノレールである。
11駅8.6kmの路線で、最高速度80km/hで全区間を19分で結んでいる。運賃は距離制で、RM1.20〜2.50。全駅で自動改札が設置されている。
当初は日立製作所のモノレール技術によって建設が始められたが、1997年に起こったアジア通貨危機の影響で同年12月に工事は中断してしまう。1998年7月に国内で車両や建設を調達してコストダウンを図ることとなり、国内の企業によって工事を再開。総工費11億8千万リンギットで、2003年8月31日に開業した。 しかしKLモノレール開業以降、経営にあたっていたKLインフラストラクチャグループは多額の減価償却費や利子支払による損失を被り、会計年度の2004年4月30日には、1508万リンギットの収益に対して、4624万リンギットの純損失を計上したと発表。このため政府系金融機関に借入を申し入れる。
2007年4月に政府間との話し合いがもたれ、2007年11月にマレーシア政府100%出資のナショナル・インフラストラクチャ・カンパニーに売却した。同時に、ラピドKLが運営を開始した。


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世界遺産:宇治市 平等院 [海外旅行]


平等院は、京都府宇治市にある単立の寺院。山号は朝日山。開基は藤原頼通、開山は明尊。本尊は阿弥陀如来坐像。
宗派は17世紀以来天台宗と浄土宗を兼ね、現在は特定の宗派に属しておらず、塔頭である本山修験宗聖護院末寺の最勝院と浄土宗の浄土院が年交代制で共同管理している。
鳳凰堂(国宝)で世界に広く知られている。平安時代後期にあたる11世紀以来保持されてきた数々の建造物を中心とする寺宝と文化財は、往時の思想・文化を今に伝える。平等院と周辺地域は琵琶湖国定公園指定区域の一つである「宇治川沿岸地区」の中核をなす。1994年(平成6年)に登録されたユネスコ世界遺産「古都京都の文化財」の構成物件の一つでもある。
京都南郊の宇治の地は、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台であり、平安時代初期から貴族の別荘が営まれていた。現在の平等院の地は、9世紀末頃、光源氏のモデルともいわれる嵯峨源氏の左大臣源融が営んだ別荘だったものが陽成天皇、次いで宇多天皇に渡り、朱雀天皇の離宮「宇治院」となり、それが宇多天皇の孫である源重信を経て長徳4年(998年)、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となったものである。

道長は万寿4年(1027年)に没するが、その子である関白藤原頼通は永承7年(1052年)になり、末法の世が到来したこともあって、宇治殿を寺院に改めようと考えた。そして、その開山(初代執印)は小野道風の孫にあたり、天台宗寺門派(現・天台寺門宗)で、園城寺長吏を務めて京都岡崎(現・京都市左京区岡崎)の平等院の住持となっていた明尊大僧正とした。その際、頼通は新たな寺院の名称として「平等院」の名を欲したので、明尊は岡崎の平等院の名称を譲っている。これによって岡崎の平等院は新たに円満院と改名した。円満院は後に江戸時代に入ってから現在地である滋賀県大津市にある園城寺の東に移転している。
こうして、宇治の平等院は園城寺の末寺として創建された。その際、境内の西にあった縣神社を鎮守社としている。本堂(金堂)は、元は宇治殿の寝殿でそれを仏堂に改造したものである。現在観音堂が建っている場所にあり、大日如来像を本尊とした。翌天喜元年(1053年)には、西方極楽浄土をこの世に出現させたかのような阿弥陀堂(現・鳳凰堂)が建立されている。延久6年(1074年)、頼通は当院で亡くなっている。
飛鳥時代・奈良時代・平安時代前期に広まった仏教は、現世での救済を求めるものであった。平等院が創建された平安時代後期になると、日本では末法思想が広く信じられていた。末法思想とは、釈尊の入滅から2000年目以降は仏法が廃れるという思想である。しかし、天災・人災が続いた為、人々の不安は一層深まり、終末論的思想として捉えられるようになり、この不安から逃れるための厭世的思想として捉えられるようになる。仏教も現世での救済から来世での救済に変わっていった。平等院が創建された永承7年(1052年)は、当時の思想ではまさに「末法」の元年に当たっており、当時の貴族は極楽往生を願い、西方極楽浄土の教主とされる阿弥陀如来を本尊とする仏堂を盛んに造営した。
平等院には創建当初から藤原頼通によって寺領が施入されていたが、実質的には平等院の主である頼通の管理下にあった。治暦3年(1067年)10月、頼通は後冷泉天皇が平等院に対して封戸300戸を施入したのを機に、平等院の荘園に不輸の権を認めて欲しいと願い出て、その要望を認めて平等院領9か所に不輸の権を与える太政官符を得て、官使の検分のもと四至牓示を行われ、立券荘号が行われた。翌年3月、後冷泉天皇が病に倒れると、頼通は3月28日には先の9か所の平等院領荘園に対する不入の権の適用を求める申請を行った。頼通は翌29日に改めて9か所の不輸の権・不入の権を認める太政官牒の発給を受けた。そして、4月19日に後冷泉天皇が崩御し、頼通とは疎遠であった後三条天皇が即位して延久元年(1069年)には有名な延久の荘園整理令を出した。摂関家の荘園も整理令の対象とされたが、頼通が先帝・後冷泉天皇の崩御の直前に駆け込みで得た平等院領の太政官符・太政官牒が荘園の公験として有効とされて整理を免れた。

鳳凰堂(ほうおうどう)は、天喜元年(1053年)に建立された阿弥陀堂であり、国宝である。「鳳凰堂」の呼称は後世のもので、平安時代の記録では固有の名称ではない「阿弥陀堂」あるいは「御堂」となっている。堂内須弥壇の格狭間に嵌め込まれた金銅板の延宝8年(1680年)の刻銘に「平等院鳳凰堂」とあり、このことから、江戸時代初期にあたるこの時期までには「鳳凰堂」の名が生まれていたことがわかる。江戸時代中期の地誌『山州名跡志』(正徳元年(1711年)刊)にも「鳳凰堂」の名が見える。
本尊である国宝・阿弥陀如来坐像は仏師・定朝の確証ある現存唯一の作品である。定朝は、大陸風を脱して和様の仏像様式を生み出した日本仏教彫刻史上重要な仏師であるが、長い歴史のうちに鳳凰堂の阿弥陀如来坐像以外の作品のことごとくが失われたと考えられている。

尾廊(びろう)は中堂西側裳階に接続し、西側に真っ直ぐ伸びる。切妻造、本瓦葺、平屋建てで、桁行7間、梁間1間とする。組物は平三斗、内部の構架は二重虹梁蟇股とし、天井は張らない。桁行7間のうち、中堂裳階に接する第1間は片引戸、以下は第2・3・6・7間を花頭窓、第4・5間を格子窓とする。尾廊は第5・6間の部分で池をまたいでおり、その部分の柱(西から3本目)は池中に立っている。尾廊の窓や床は室町時代頃に設けられたものとみられる[38]が、1889年(明治22年)に作成された図面によると池の上に掛かる部分は床ではなく橋となっている。しかし、明治修理で現在の形にされたようである。尾廊の柱は大部分が修理によって取り換えられているが、南側の第3間の左右の柱のみは古い。

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世界遺産:ペルー マチュ・ピチュ [海外旅行]


マチュ・ピチュは、15世紀のインカ帝国の遺跡で、アンデス山脈に属するペルーのウルバンバ谷に沿った山の尾根(標高2,430m)にある。
当時、インカ帝国の首都はクスコで、標高3,400mに位置する。標高2,430mのマチュ・ピチュから、さらに約1,000メートル高い場所にその首都があった。現在のクスコはペルー有数の都市でその市街地は世界遺産(文化遺産)である(1983年に登録された)。
なお、インカ帝国は1533年にスペイン人による征服により滅亡したが、アンデス文明は文字を持たないため、マチュ・ピチュの遺跡が何のために作られたのか、首都クスコとの関係・役割分担などの理由はまだ明確には分かっていない。
アメリカの探検家ハイラム・ビンガム3世は、1911年7月24日にこの地域の古いインカ時代の道路を探検していた時、山の上に遺跡を発見した。
ビンガムは1915年までに3回の発掘を行った。彼はマチュ・ピチュについて一連の書籍や論文を発表し、最も有名な解説「失われたインカの都市」がベスト・セラーになった。この本は『ナショナル・ジオグラフィック』1913年4月号ですべてをマチュ・ピチュ特集にしたことで有名になった。また1930年の著書『マチュ・ピチュ:インカの要塞』は廃墟の写真と地図が記載され説得力のある決定的な論文となった。以後、太陽を崇める神官たちが統治したとか、あるいは太陽に処女たちが生贄にされたといった定説が形成された。

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重要文化財:弘前城、最勝院の五重塔、津軽藩ねぷた村 [海外旅行]


弘前城は、陸奥国鼻和郡(のち統合と外浜(青森)、西浜(十三湊)を編入で津軽郡)弘前(現・青森県弘前市下白銀町)にあった日本の城である。別名・鷹岡城、高岡城。江戸時代に建造された天守や櫓などが現存し国の重要文化財に指定されている。また城跡は国の史跡に指定されている。江戸時代には津軽氏が居城し弘前藩の藩庁が置かれた。
江戸時代には弘前藩津軽氏4万7千石の居城として、津軽地方の政治経済の中心地となった。城は津軽平野に位置し、城郭は本丸、二の丸、三の丸、四の丸、北の郭、西の郭の6郭から構成された梯郭式平山城である。創建当初の規模は東西612メートル、南北947メートル、総面積38万5200平方メートルに及んだ。現在は、堀、石垣、土塁等城郭の全容がほぼ廃城時の原形をとどめ、8棟の建築と現存12天守に数えられる内の天守1棟が現存する。現存建築はいずれも、国の重要文化財に指定されている。

最勝院は、青森県弘前市銅屋町にある真言宗智山派の寺院。山号は金剛山、寺号は光明寺。境内には重要文化財に指定されているものとしては日本最北に位置する五重塔がある。
弘前ねぷたまつりで知られる弘前市の中心部、弘前城の南方の禅林街及び新寺町と呼ばれる地区には46の寺院が建ち並ぶが、その中で長勝寺と並ぶ代表的寺院であり、市民からは「五重塔の寺」として親しまれている。寺名はつぶさには「金剛山光明寺最勝院」と称し、院号は護国三部経の一つで密教色の強い『金光明最勝王経』に由来する。
『津軽一統志』によると、天文元年(1532年)、常陸国出身の弘信が、堀越城下(現・弘前市堀越)に堂宇を建立したことに始まる。江戸時代初期に弘前藩2代藩主津軽信枚が弘前城を築城したことに伴い、慶長16年(1611年)、城の鬼門(東北)に当った現在地より北に3キロメートルほど離れた田町に寺院を移転し、弘前八幡宮の別当寺とされた。12か寺の塔頭寺院を従え藩の永世祈願所となった。近世には僧録所として、津軽藩領内の寺社を統轄する立場にあった。
寛文7年(1667年)に完成した旧大円寺の塔で方3間、総高31.2メートル(相輪含む)である。津軽藩3代藩主津軽信義、4代津軽信政の寄進により、前後10年以上をかけて建立された。国の重要文化財指定の五重塔としては日本最北端に位置する。心柱は角柱で、初層天井から立つ。江戸時代建立の塔であるが古式を残し、軸部の逓減率[2]が高く、バランスの取れた優美な塔である。初層は正面のみを連子窓、他3面を丸窓とし、2層以上は窓や構造材の意匠に変化をもたせている。

津軽藩ねぷた村は、青森県弘前市にある弘前ねぷたをテーマとした体験型の観光施設。
弘前ねぷたのお囃子の実演が行われる弘前ねぷたの常設展示館「弘前ねぷたの館」のほか津軽三味線の生演奏を聴くことができる「山絃堂」や津軽地方の民工芸品製作風景の見学や製作体験ができる体験型の施設である。施設内には国の登録記念物となっている日本庭園「揚亀園」(ようきえん)や、東北地方でも数少ない雪国の茶室「揚亀庵」(文化財指定)、弘前市の「趣のある建物」に指定されている「蔵工房たくみ」がある。青森県内のねぶた・ねぷた施設では唯一、ミシュラン社(フランス)のミシュラン・グリーンガイド・ジャポン(観光ガイド)で掲載されている施設である。

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日本の秋:長岡京市光明寺の紅葉と仙石原のススキ [海外旅行]


光明寺紅葉
光明寺は、京都府長岡京市にある寺院。西山浄土宗の総本山。法然が初めて「念仏」の教えを説いた地である。また、紅葉の名所としても広く知られる。
奈良へ学匠となるべき師を求めて比叡山延暦寺を下ってきた24歳の法然が、粟生野の里の村役だった高橋茂右衛門宅に一夜の宿を借りた際、茂右衛門夫妻は法然の真剣な求法の気持ちと、広く大衆が救われる道を求めての旅であることを聞いて「まことの教えを見いだされましたならば、先ず最初に私共にその尊いみ教えをお説き下さいませ」と法然にお願いした。
そして承安5年(1175年)3月、ついに浄土宗を開いた法然は20年前の約束を守ろうと、この地で初めて念仏の法門を説いた。こうして法然が初めて「お念仏」の教えを説いた地であることからこの地は「浄土門根元地」といわれている。
その後、法然を慕い帰依した弟子の蓮生(熊谷直実)が、建久9年(1198年)に法然ゆかりの当地に念仏三昧堂を建立し、法然から「念仏三昧院」の寺号を頂戴したのが光明寺の直接の始まりである。建永2年(1207年)9月4日に熊谷で予告往生を遂げた蓮生の遺骨は、遺言により当寺に安置されたという。
嘉禄3年(1227年)に起こった嘉禄の法難の際にはここで法然の遺骸を荼毘に付し、廟堂が建てられた。その際に法然の石棺からまばゆい光明が発せられたという。四条天皇はそのことを聞いて、光明寺の勅額をあたえ、寺名を改めた。
法然の弟子である西山上人証空が西山義の教えを広めていき、浄土宗西山派が成立していくが、その弟子の浄音が証空の教えの上に更に自らの考えをも交えて西谷(せいこく)流を唱えだし、光明寺の他に禅林寺(永観堂)も主な拠点として西山義、西谷流の教えを広めた。
1876年(明治9年)には光明寺は浄土宗西山派の西本山となる。だが、1919年(大正8年)に浄土宗西山派はそれぞれの考えの違いから浄土宗西山光明寺派(戦後に西山浄土宗となる)、浄土宗西山禅林寺派、浄土宗西山深草派の三つに分裂してしまい、現在に至る。

仙石原ススキ
仙石原は神奈川県足柄下郡箱根町の地名。ススキの草原や仙石原温泉で知られる。
箱根火山カルデラ内の北部に位置し、湿原や草原が広がる。総面積は約16ha。これはかつてこの地域がカルデラ湖の一部だった名残りである。富士箱根伊豆国立公園に指定されている。現在は一部が別荘地やゴルフ場として整備されている。現在は2005年にオープンした箱根ラリック美術館をはじめ、ポーラ美術館、星の王子さまミュージアム、箱根ガラスの森等の美術館が点在し、美術館目当ての観光客も多い。
仙石原のことを、古くは「千穀原」とも書いた。地名の由来については複数の説があり、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名、豊臣秀吉の最古参家臣仙石秀久に由来する説や、源頼朝が雄大な原野を眺めて「この地を開墾すれば米千石はとれるだろう」と言ったのを由来とする説。などがある。

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全面展望映像:北海道 幕別街[→]帯広市内[→]幕別街 [海外旅行]


幕別町は、北海道中川郡にある町。町名は、アイヌ語の「マクンベツ」(山際を流れる川)が転訛したものと言われている。
十勝中央部よりやや南に位置しており、西は帯広市、北及び北東は十勝川を境にして音更町、池田町、東は豊頃町、南は大樹町と更別村に接している。
幕別町の位置する十勝平野は主に丘陵地や台地によって形成しており、幕別地域の北を十勝川、西を札内川、中央を猿別川と途別川が流れているほか、小河川が各所に流れている。忠類地域は大樹町や更別村の台地に向かって階段状に標高を増して丘陵地を形成しているが、一部には緩波状地もある。東部・南部・北部の三方は森林資源の豊富な標高200 mから300 mの山々に囲まれている。また、地域の中央部を北西から南東に当縁川が流れている。
歴史
1869年(明治2年):蝦夷地を北海道と改称し、十勝国は静岡藩の管轄となる。現在の幕別町にはヤムワッカ村(幕別市街)、チロト村(千住)、イカンベツ村(相川地区)、ヘチャロ村(札内地区)、マクウンベツ村(それ以外の地域)の5村があった。
1880年(明治13年):大津村に十勝外4郡戸長役場設置し、止若村(やむわっか)、白人村(ちろっと)、咾別村(いかんべつ)、別奴村(べっちゃろ)、幕別村はその管轄となる。
1882年(明治15年):開拓使廃止し、札幌・函館・根室に各県設置(三県一局時代)、十勝国は札幌県の管轄となる。幕別最初の和人として細谷十太夫が止若村に入地。
1889年(明治22年):永井三治が止若村に入地。
1892年(明治25年):香川県移民奨励会13戸が止若村、徳島県の南海社14戸が咾別村に入地。
1893年(明治26年):大津街道(旧国道)完成。
1894年(明治27年):群馬県新田郡鳥之郷村の岡田新三郎が丸山南麓に単身入地し、忠類村の開拓が始まる。猿別を区画して貸付開始。
1897年(明治30年):新潟県の鈴木久太郎ら7戸が当縁川沿岸に移住。幕別村、止若村、白人村、咾別村、別奴村、凋寒村、蝶多村が分離・独立し、猿別に幕別外6ヶ村戸長役場設置。河西郡外5郡役所設置し、歴舟村、大樹村、当縁村はその管轄となる。
1899年(明治32年):凋寒村と蝶多村(いずれも現在の池田町)が分離・独立し、幕別4ヶ村戸長役場となる。
1900年(明治33年):晩成社が途別で水田の試作に成功。
1905年(明治38年):釧路線利別—帯広開通し、止若駅(1963年に幕別駅と改称)開設。
1906年(明治39年):北海道2級町村制施行し、幕別村となる。止若に村役場移転。当縁郡が廃止となって広尾郡と十勝郡に分割し、茂寄村(1926年に広尾村と改称)の管轄となる。
1910年(明治33年):札内駅開設。
1919年(大正8年):幕別村が北海道1級町村制施行。
1926年(大正15年):幕別村大字別奴村のうち、字更別、上途別、古舞の一部が大正村に編入。
1928年(昭和3年):広尾村から分村し、大樹村(現在の大樹町)となる。
1930年(昭和5年):止若で大火災発生。広尾線忠類駅開設(1987年廃止)。
1931年(昭和6年):白銀台スキー場開設。
1935年(昭和10年):千代田堰堤竣工。
1938年(昭和13年):止若橋(木橋)の渡橋式開催(1955年に永久橋完成)。
1944年(昭和19年):幕別村の字名を改編[注 1]。
1945年(昭和20年):止若、札内が空襲を受ける(北海道空襲)。
1946年(昭和21年):幕別村が町制施行し、幕別町となる。
1947年(昭和22年):池田町から新川を編入。
1948年(昭和23年):幕別町の勢雄と弘和の一部を大正村に分割。
1949年(昭和24年):大樹村から分村し、忠類村となる。
1952年(昭和27年):『十勝沖地震』発生。

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世界遺産:醍醐寺 [海外旅行]


醍醐寺は、京都市伏見区醍醐東大路町にある真言宗醍醐派総本山の寺院。山号を醍醐山(深雪山とも)と称し、本尊は薬師如来。上醍醐の准胝堂(じゅんていどう)は、西国三十三所観音霊場第11番札所で本尊は准胝観世音菩薩。京都市街の南東に広がる醍醐山(笠取山)に200万坪以上の広大な境内を持ち、国宝や重要文化財を含む約15万点の寺宝を所蔵する。豊臣秀吉による「醍醐の花見」が行われた地としても知られている。古都京都の文化財として世界遺産に登録されている。
平安時代初期の貞観16年(874年)、弘法大師空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が准胝観音ならびに如意輪観音を笠取山頂上に迎えて開山し、聖宝は同山頂付近を「醍醐山」と名付けた。醍醐とは、『大般涅槃経』などの仏典に尊い教えの比喩として登場する乳製品である。貞観18年(876年)には聖宝によって准胝堂と如意輪堂が建立されている。
醍醐寺は山深い醍醐山頂上一帯(上醍醐)を中心に、多くの修験者の霊場として発展した。後に醍醐天皇が醍醐寺を自らの祈願寺とすると共に手厚い庇護を与え、延喜7年(907年)には醍醐天皇の御願により薬師堂が建立されている。その圧倒的な財力によって延長4年(926年)には醍醐天皇の御願により釈迦堂(金堂)が建立され、醍醐山麓の広大な平地に大伽藍「下醍醐」が成立し、発展した。理性院、三宝院(灌頂院)、金剛王院(現・一言寺)、無量光院、報恩院の醍醐五門跡から歴代座主が選ばれるなど大いに栄えていた。
その後、室町時代の応仁の乱などで下醍醐は荒廃し、五重塔のみが残されるだけとなっていた。しかし、豊臣秀吉によって花見が醍醐寺で行われることに決まると、秀吉によって三宝院が再興されるなどし、伽藍が復興され始め、慶長3年(1598年)に「醍醐の花見」が盛大に行われた。

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