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城壁の都市:ドイツ ニュルンベルク [海外旅行]


ニュルンベルクは、ドイツ連邦共和国南部に位置し、バイエルン州のミッテルフランケン行政管区に属する郡独立市。
人口50万人を超えるバイエルン州第2の都市(ドイツ全体では14番目)である。隣接するフュルト、エアランゲン、シュヴァーバッハとともにフランケン地方の経済的・文化的中心をなしている。中世からの伝統ある都市であり、ドイツ統一を主導したホーエンツォレルン家がニュルンベルク城伯を世襲した都市である。また、ナチス政権が最初の大会を開催した都市であり、それゆえナチス政権要人を裁く「ニュルンベルク裁判」が行われたことでも知られる。リヒャルト・ワーグナーの楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の舞台としても知られる。現在も旧市街は中世の城壁で囲まれている。
ニュルンベルクの成立は明らかでない。ザクセン、バイエルン、東フランケン、ベーメンの境界で、1000年から1400年頃に保護された重要な街道が交わる地点から徐々に成立していったと考えられている。いずれにせよ、この入植地は成立初期に既に市場の開催権を得ていた。この街は1050年に神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世のSigena-Urkundeに「nuorenberc」として記録されている。現在の地名の元となったこの名前は「岩山」を意味している。その後、ニュルンベルク城は皇帝の拠点として神聖ローマ帝国で重きをなした。1065年にハインリヒ4世は帝国領ニュルンベルク及びその周辺地域に高等裁判所管区及び行政管区を設けた。コンラート3世は裁判権と統治権を持つニュルンベルク城伯の位を新設し、ラープス家にこれを与えた。1190年あるいは1191年以後、この地位はツォレルン家(後のホーエンツォレルン家)に移された。
1219年、皇帝フリードリヒ2世の大特権授与によりニュルンベルクは帝国自由都市となった。城伯の影響力は城とその直近に制限され、フランケン地方におけるホーエンツォレルン家の拠点はバイロイトやアンスバッハなどに移っていった。1427年、最後の城伯フリードリヒ6世(ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ1世でもあった)はニュルンベルク城の権利をニュルンベルク市参事会に売却し、城伯の地位は完全に消滅した。これ以後、バイエルン王国に併合されるまで、この都市の行政権は市参事会の手に委ねられた。
中世以来、ニュルンベルクはアウクスブルクと共にイタリアとヨーロッパ北部を結ぶ2大貿易都市であった。商業都市の例に漏れずユダヤ人も多く居住していたが、1298年、「リントフライシュ王」と名乗る騎士に煽動された群衆が暴徒と化して各地のユダヤ人街を襲撃し、ニュルンベルクでは698人のユダヤ人が犠牲となった。
多くの皇帝がニュルンベルクを好んで居館に選んだ。中でもカール4世は、1356年にニュルンベルクで金印勅書を公布した。勅書では即位後第1回目の帝国議会をニュルンベルクで開催することと定められ、この慣例は1543年まで続けられた。また、1423年にジギスムントは帝権の表象をこの街に与え、19世紀の初めまでこの街に保存されていた。
1470年から1530年までの期間にはゲッツ・フォン・ベルリヒンゲンやコンラート・ショット・フォン・ショッテンシュタインといった騎士達がフェーデや戦いを繰り広げたにもかかわらず、ニュルンベルクはその最盛期を迎えていた。優れた手工芸やヨーロッパの中央に位置する交易上の好条件により、この街に富がもたらされた。マイスタージンガーのハンス・ザックスや、画家アルブレヒト・デューラーはこの時代にニュルンベルクで活躍した人物である。デューラーの『四人の聖人』(いわゆる『使徒たち』:アルテ・ピナコテーク所蔵)はこの街の教会のためにこの街で描かれた。この時代のニュルンベルクはケルンやプラハとならぶ神聖ローマ帝国最大の都市の1つであった。しかし1525年、市当局が宗教改革を受け入れたことで、皇帝との関係は次第に疎遠となり、「皇帝の街」としての権威は失われていった。
一方でフランケン公領の創設を目論むホーエンツォレルン家と度々衝突、アンスバッハ辺境伯アルブレヒト・アヒレス、クルムバッハ辺境伯アルブレヒト・アルキビアデスとの戦争はそれぞれ第一次辺境伯戦争、第二次辺境伯戦争と呼ばれたが、いずれもホーエンツォレルン家の敗北に終わった。

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