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世界遺産:岐阜県 白川郷 [海外旅行]


白川郷は、岐阜県内の庄川流域の呼称である。
大野郡白川村と高山市荘川町(旧荘川村)および高山市清見町(旧清見村)の一部に相当し、白川村を「下白川郷」、他を「上白川郷」と呼ぶ[1]。今日では白川村のみを指すことが多い。白川郷の荻町地区は合掌造りの集落で知られる。独特の景観をなす集落が評価され、1976年重要伝統的建造物群保存地区として選定、1995年には五箇山(相倉地区、菅沼地区)と共に白川郷・五箇山の合掌造り集落として、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された[2]。白川郷の荻町地区は、今も実生活の場として使われているところに価値があり、それが他地域の合掌民家集落と違うところである。「世界遺産白川郷合掌造り保存財団」などがその保存にあたっている。毎年1月と2月頃の週末には夜間ライトアップが行われる。なお、2019年からライトアップ見学は完全予約制となった。

合掌造りは、日本の住宅建築様式の一つである。急勾配の屋根を持つことがしばしばであるが、現存する合掌造りの屋根は45度から60度まで、傾きにかなりの幅がある。
合掌造りの定義自体が一様ではないが、日本政府が白川郷と五箇山の集落をユネスコの世界遺産に推薦した時には、「小屋内を積極的に利用するために、叉首構造の切妻造り屋根とした茅葺きの家屋」と定義づけた。名称の由来は、掌を合わせたように三角形に組む丸太組みを「合掌」と呼ぶことから来たと推測されている。同じ白川郷(荘白川)でも、高山市の旧荘川村地域に残る合掌造りは、入母屋屋根になっている。

特徴
合掌造りは、茅葺(かやぶき)の叉首構造の屋根が大きな特徴となっており、とりわけ後の時代に建てられたものはその屋根が急勾配になっている。この傾斜は、豪雪による雪下ろしの作業軽減や多雨地帯でもあることによる水はけを考慮したものと考えられている。現在見られる合掌造りにも切妻屋根のもの(白川村や五箇山に多い)、入母屋屋根のもの(旧荘川村に多い)がある。残存している切妻屋根の家屋については、その方が屋根裏の作業スペースが多く取れるからと指摘されている。また、屋根の勾配を急にしたことは、屋根裏に二層もしくは三層の空間を確保することにつながり、豪雪への対策以外に養蚕業にとっても都合が良いものであった。世界の建築の一つとして国立民族学博物館には合掌造りの展示として、五箇山初の民宿「勇助」の模型が展示されている。

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世界遺産:ウシュマル遺跡 カンペチェ大聖堂 [海外旅行]


ウシュマル は、メキシコ、ユカタン州にある古典期後期から後古典期のマヤ文明の遺跡。
メリダの南方78kmの地点にあり、カンペチェへ向かうメキシコの高速自動車国道261号線で、メリダから110kmの地点にある。ウシュマルという地名は、オシュ=マハアルと発音されたと考えられ、マヤ語の研究者の間でその由来について論争があるが、コロンブス到着以前の古いマヤ語の名称と考えられ、「三度にわたって建てられた町」という意味である(cf.カラコルの旧名「オシュ=ウィツア」を見よ)。
多くの観光客の目的地となるためにウシュマルの建造物の整備や復元にたくさんの労力が注がれる一方で、細々とであるが真摯な考古学的な発掘調査や研究がなされてきた。この都市の占地が行われた時代はよくわかっていないが、人口は、現時点では概算で2万5千人ほどと推定されている。 今日目にすることのできる大多数の建造物は、だいたい紀元700年から1100年の間に建てられたものである。
マヤの年代記によれば、ウシュマルは、フン=ウィツィル=トゥトゥル=シウによって紀元500年に建てられた町であるという。ウシュマルは何代にもわたってシウ家によって支配され、ユカタン西部でもっとも強力な都市であった。そしてチチェン・イッツアと同盟を結んで北部ユカタン全域を支配していた。紀元1200年以降は主要な建築物を新たに建築することは行われなくなる。このことは、ウシュマルと同盟者チチェン・イッツアの衰退とマヤパンへユカタンの権力が移っていく過程と関係しているとおもわれる。 シウ家が、マニへ首都を移すとともに、ウシュマルの人口は減少していった。
スペインによる征服後、シウ家自身は、スペインの同盟者となったが、初期植民地時代の記録によると、ウシュマルは、1550年代までは、ある程度の数の人々が住む重要な場所であったが、そこにスペイン風の町が建てられることはなくやがてウシュマルは放棄されることとなった。

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