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国宝・重要文化財:京都 青蓮院、三十三間堂 豊国神社 [海外旅行]


青蓮院は、京都市東山区粟田口にある天台宗の寺院。青蓮院門跡とも称する。山号はなし。開山は伝教大師最澄、本尊は熾盛光如来である。現在の門主(住職)は、東伏見家(旧伯爵家)出身の東伏見慈晃。
青蓮院は、梶井(現・三千院)、妙法院と共に、天台宗の三門跡寺院である(天台三門跡)。「門跡寺院」とは皇族や摂関家の子弟が入寺する寺院のことであり、青蓮院は多くの法親王・入道親王(皇族出身で親王の称号を与えられた僧侶)が門主(住職)を務め、格式を誇ってきた。江戸時代に仮御所となったことがあるため「粟田御所」の称もある。日本三不動の1つ「青不動」のある寺としても知られる。
国宝
絹本著色不動明王ニ童子像 - 「青不動」と通称される平安時代後期の仏画。奈良国立博物館に寄託されていたが、2014年(平成26年)10月に飛地境内の将軍塚に大護摩堂「青龍殿」が完成し、同所にて10月から12月まで開帳された。園城寺(三井寺)の黄不動、高野山明王院の赤不動とともに三不動といわれている。現在、青龍殿に祀られているものは複製品であり、国宝本体は青龍殿奥殿に安置されている。
重要文化財
木造兜跋毘沙門天立像
金地著色浜松図 17面(うち1面盗難)
後光厳院宸翰消息(九月十日)
紺紙金泥大灌頂光明真言(光格天皇宸翰)
解深密経 巻第四(げじんみっきょう)(金砂子色麻紙)
門葉記 122巻(附:同写本149冊)
夜鶴庭訓抄
往生要集 上中下 3帖 承安元年僧弘恵書写奥書
観音応験記
八家秘録及び諸真言目録 10帖 寛治五年僧勝豪書写校合奥書
慈円一期思惟記(自筆本)
青蓮院吉水蔵聖教類(しょうぎょうるい) 1,622種
円仁自筆書状(十一月二十四日)
皇慶附嘱状1通・皇慶起請1通 永承三年
円仁入唐請来書目録 嘉承三年僧院昭書写奥書
慈円自筆四天王寺聖霊院願文案

三十三間堂は京都府京都市東山区三十三間堂廻町にある仏堂。建物の正式名称は蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)。同じ京都市東山区にある天台宗妙法院の境外仏堂であり、同院が所有・管理している。元は後白河上皇が自身の離宮内に創建した仏堂。本尊は千手観音で、蓮華王院の名称は千手観音の別称「蓮華王」に由来する。
この地には元々、後白河上皇(1127年 - 1192年)が離宮として建てた法住寺殿があった。その広大な法住寺殿の一画に建てられたのが蓮華王院本堂としての三十三間堂である。上皇が眠る「法住寺陵」は三十三間堂の東隣にある[2]。
上皇が平清盛に建立の資材協力を命じて長寛2年12月17日(1165年1月30日)に完成したという。創建当時は五重塔なども建つ本格的な寺院であったが、建長元年(1249年)の火災で焼失した。文永3年(1266年)に本堂のみが再建されている。現在「三十三間堂」と称されている堂であり、当時は朱塗りの外装で、内装も極彩色で飾られていたという。建築様式は和様に属する。
三十三間堂について次のような伝承がある。後白河上皇は長年頭痛に悩まされていた。熊野参詣の折にその旨を祈願すると、熊野権現から「洛陽因幡堂の薬師如来に祈れ」とお告げがあった。そこで因幡堂に参詣すると、上皇の夢に僧が現れ「上皇の前世は熊野の蓮華坊という僧侶で、仏道修行の功徳によって天皇に生まれ変わった。しかし、その蓮華坊の髑髏が岩田川の底に沈んでいて、その目穴から柳が生え、風が吹くと髑髏が動くので上皇の頭が痛むのである」と告げた。上皇が岩田川(現在の富田川)を調べさせるとお告げの通りであったので、三十三間堂の千手観音の中に髑髏を納め、柳の木を梁に使ったところ、上皇の頭痛は治ったという。「蓮華王院」という名前は前世の蓮華坊の名から取ったものであるという。この伝承により「頭痛封じの寺」として崇敬を受けるようになり、「頭痛山平癒寺」と俗称された。
なお、これより前、後白河上皇の父・鳥羽上皇は平清盛の父の平忠盛の寄進により、鴨東白河に聖観音を祀る得長寿院千体堂(三十三間堂、文治地震で倒壊したとされる)を営んでいる。2人の上皇がいずれも平氏の棟梁の寄進により寺院を造営していることは、平氏隆盛の一因として留意する必要がある。

豊国神社は、京都市東山区に鎮座する神社。神号「豊国大明神」を下賜された豊臣秀吉を祀る。豊臣家滅亡とともに徳川家康の命により廃絶となったが、のちに明治天皇の勅命により再興された。
主祭神の居城があった大阪市中央区の大阪城公園や滋賀県長浜市のほか、出身地の名古屋市中村区などにも豊臣秀吉を祀る豊国神社が存在している。
慶長3年8月18日(1598年9月18日)に亡くなった豊臣秀吉の遺体は火葬されることなく伏見城内に安置されていたが、死去の翌年の慶長4年(1599年)4月13日、遺命により東山大仏(方広寺)の東方の阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬され、その麓に高野山の木食応其によって廟所が建立されたのに始まる。廟所は秀吉の死後間もなく着工されたが、着工時はまだ秀吉の死は伏せられていたため「大仏の鎮守社」と称していた。この鎮守社は北野社に倣った八棟造りだったと『義演准后日記』慶長3年9月7日条に記されている。秀吉は奈良東大寺大仏殿を鎮護する手向山八幡宮に倣い、自身を「新八幡」として祀るように遺言したといわれる。「大仏の鎮守」として着工された社は、秀吉の死が明らかになるのに合わせるように「新八幡社」と呼ばれるようになる。
慶長4年(1599年)4月16日、朝廷から秀吉自身の望みとは相違して豊国乃大明神の神号が与えられた。『豊国大明神臨時祭礼御日記』によれば日本の古名である「豊葦原中津国」を由来とするが、豊臣の姓をも意識したものであった。神号下賜宣命には豊国大明神は兵威を異域に振るう武の神と説明されている。4月18日に遷宮の儀が行われ、社は豊国神社と命名された。4月19日には正一位の神階が与えられた。なお、豊国神社は豊臣秀頼の希望により大坂城内にも分祀された。秀頼自身は本社創建の際には参列しておらず、慶長16年(1611年)の二条城訪問の折に最初で最後となる参拝を行っている。大明神号となったのは、八幡神は皇祖神であるから勅許が下りなかったとする説や、反本地垂迹説を掲げる吉田神道による運動の結果とする説がある。

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